太平洋戦争のさなか、日本の劣勢が次第に色濃くなっていった昭和19年(1944)6月10日、
神道研究家の岡本天明(1987〜1963)は、
千葉県印旛郡台方(いんばぐんだいかた:現・成田市台方)にある麻賀多神社(まがたじんじゃ)に参拝した。

境内にはだれもおらず、寂しい風情であった。

本殿から左手奥に進むと、小さな、みすぼらしい祠(ほこら)があった。
すぐ脇に立つ木の柱には「天之日津久神社(あめのひつくじんじゃ)」と書かれていた。

2か月ほど前の4月18日、岡本天明(おかもとてんめい)が審神者(さにわ=神託を受け、神意を解釈して伝える者)となり、
原宿で行われたフーチ(ふたり一組になり、自動書記によって神霊の意をうかがう方法。漢字で書くと「扶乩」)の実験会で、
参加者の前で書記された文字が、「天ひつく」「日月のかみ」といった、神名のような言葉であった。

そのときは何の神かわからなかったが、実験会に参加した某氏が調べたところ、
この麻賀多神社の境内末社に天之日津久神社というのがあることが判明したのである。

その後、思いがけないいきさつがあり、何かに導かれるようにここへ来た。

「ああ、ここだ」ー天明は思った。

ていねいに参拝をすませた後、無人の社務所に上がり込んでひと休みしようとした。
そのとき、突如として右腕の血管が膨らみだした。
痛くてたまらない。

気づくと、何か耳元で声がする。
いや、耳元ではなく、体の内側から聞こえてくる。

「筆をとれ」といってるようだ。

天明は、本来画家であった。
旅に出るときはいつも画仙紙(がせんし:書画に用いられる大判の用紙)と、
矢立(やたて:携帯用の筆記用具)を持ち歩く習慣があり、この日も例外ではなかった。

たまらず矢立を取り出し、画仙紙にあてたところ、たちどころに痛みはおさまり、すらすらと文字のようなものを書かされた。

後に「日月神示(ひつきしんじ)」と呼ばれる天啓の、発祥の瞬間であった。

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