>>58 この大田知事に対する自公の酷さよ
1998年2月の段階で、政府が普天間基地の返還の条件として沖縄県内で移設という「県内移設」を主張したことに大田知事は激しく反対を主張した。
対抗措置として自民党は沖縄との経済振興策を話し合う「沖縄政策協議会」を一方的にボイコットし、知事選まで振興策の協議は事実上凍結された。
これは沖縄の経済界、とくに中小企業にとっては死活的な恫喝そのものであった。辺野古の海上ヘリポートの建設に反対を表明、
沖縄県が打ち出した「基地返還アクションプログラム」、国際貿易都市形成構想など8年間の実績と基地に依存しない沖縄経済の自立を訴えた[16]。
一方、対する稲嶺恵一は、政府・自民党との強いパイプを強調した経済振興を強調し、「反基地か経済か」というコピーで未曽有の広報戦略を展開し、
強力な自民党の資力が動いた。県民大会でともに県外移設を訴えてきた「盟友」大田と稲嶺は、本土の自民党の介入で大きく分かたれた[17]。
また、辺野古を、実際には不可能な米軍と民間人が共同使用するという「軍民共用空港」の公約をかかげ、辺野古移設に県民に理解を求めた[18]。
また今まで革新陣営に与してきた公明党はこの選挙で表向き大田支持の自主投票を表明しながら、実際には稲嶺を支援。
翌年の自公連立の布石ともなった。経済振興を綱として企業の組織票を固めたこともあり、投票率は前回を10%以上も上回った。
1998年11月15日の沖縄県知事選挙では、大田は新人の稲嶺惠一に敗れ、2期8年続いた革新県政に終止符が打たれた。
辺野古案浮上で、1998年の県知事選挙は、今も続く沖縄選挙の典型的な構図の先駆けとなった。告知前に県内にいっせいに失業率を表す数字「9.2%」
と書かれた出所不明の黒地のポスターが貼られた。また、本土の大手広告代理店が入り、全国的不況のなか、大田県政が招いた不況だと誘導する
「県政不況」などのキャッチコピーが氾濫した。筑紫哲也は、この選挙を「広告宣伝技術の選挙への導人が見事な成果をおさめた例」と評した[19]。
また2010年には当時副官房長官だった鈴木宗男議員が稲嶺陣営に官房機密費で3億円が渡されていたことを証言した[20][21]。