「かつてはスタジオ映画というものが存在していました。今やマーベルの映画だらけです。マーベル映画とは、どういうものなのでしょうか。マーベル映画とは、それぞれが違うものに見せるため、これまで繰り返し繰り返し作られてきた1つのプロトタイプ(試作品)です。」

“マーベル映画”という言葉の定義づけを行ったコッポラ監督は、必ずしも疑問の対象となる映画がマーベル映画に限ったものではないことを示唆している。「才能のある人(の作品)でさえ……」と切り出したコッポラ監督は、「類まれなる才能を持ち優れたアーティストであるドゥニ・ヴィルヌーヴが作った『DUNE』や、同じく非常に才能があって美しいアーティストであるキャリー・フクナガの『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』も同じようなものですよね」と、他の大作映画も自身の定義した“マーベル映画”に該当するという考えを示しているのだ。

「この2つの映画もそうで、それぞれの作品から同じシークエンスを抜き出して、それらを組み合わせることだって出来てしまう。車が衝突するような同じシークエンスのことです。そういうものが全て(の大作)には含まれていて、彼らは予算を正当化するためにはそれを含めなければいけないんです。そうしたものが良い映画として、才能のある監督たちによって作られているんです。」

ここでマーベル映画に対するコッポラ監督の批判の意図を整理すると、マーベルをはじめとするヒーロー映画の市場席巻によりスタジオ映画が劇場公開作品として製作される機会が失われていると考えるスコセッシ監督の主張とは異なり、コッポラ監督の主張はマーベル映画に代表される近年のスタジオ映画には作品そのものの多様性が失われているということを指摘するもの。コッポラ監督はこの持論を補強するかのように、実娘で映画監督であるソフィア・コッポラに一貫して伝えてきたこととして、以下のように続けている。

「私はソフィアをはじめとする子どもたちに、“自分の映画は常にパーソナルなものであれ”と教えてきました。“君は奇跡的(な存在)で、生き生きとしているのだから、出来る限りパーソナルのものにしなさい。そうすれば、唯一無二の存在である君自身から生まれたものなのだから、そのアートは奇跡的なものになる”と。一方で、もし学校かどこかに参加した時に、それが自分の解決策だと理解した上でマーベル映画を作ろうとなり、最善を尽くすということであれば、個性というものは保たれるでしょう。しかし、アートとしては、“何か他のものを作りなさい”と伝えてきました。」

これまで『ゴッドファーザー』3部作や『地獄の黙示録』(1979)といった数々の名作を手掛けてきたコッポラ監督は、2011年を最後に監督業から遠のいていた。しかし、現在コッポラ監督は、予算が1億ドル以上にも及ぶとされる超大作『Megalopolis(原題)』の製作の真っ只中にある。まさに上で挙げられたスタジオ映画と比肩する規模の作品となるが、コッポラ監督は「お金を惜しみません」と言い、製作費を自己調達していることを明かしていた。したがって、本作がハリウッドの“スタジオ映画”に該当するかどうかは定かでない。なお、『Megalopolis』は、破滅的な災害に見舞われたアメリカ・ニューヨークを、ユートピアとして再建しようと奮闘する建築家の姿を描く物語と言われている。

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