天安門事件
てんあんもんじけん
中国・北京(ペキン)の天安門広場で起きた大衆反乱で、1976年の第一次天安門事件と1989年の第二次天安門事件がある。

[中嶋嶺雄]

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第一次天安門事件は中国の毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)体制末期における大衆反乱で、文化大革命以来の「毛沢東思想」絶対化の風潮と毛沢東家父長体制への中国民衆の抵抗を示した画期的事件であった。1976年1月に周恩来(しゅうおんらい/チョウエンライ)首相が死去するや、中国では「走資派(資本主義の道を歩む実権派)」批判のキャンペーンが一斉に開始された。一方、長年、中国の革命と建設および国際的舞台における中国の威信の増大に努めた周恩来首相を追悼しようとする中国民衆の意向は抑えられ、ふたたび極左的な潮流が支配し始めた。そのような状況のなかで、故人をしのぶ清明(せいめい)節の日にあたる1976年4月4日、北京の民衆は手に手に花輪やプラカードを掲げて、天安門広場の人民英雄記念碑に向かってデモ行進し、周恩来自筆の碑文が刻まれている記念碑を一種の祭壇に化してしまった。ところが、北京市当局と官憲が記念碑に捧(ささ)げられた花輪を撤去したために、翌5日、怒った大衆が反乱に立ち上がり、建物や自動車に放火するなどして一大騒乱となった。プラカードには、のちに「四人組」として逮捕された毛沢東夫人の江青(こうせい/チヤンチン)や側近の姚文元(ようぶんげん/ヤオウェンユアン)らを批判する詩も数多くみられ、明らかに毛沢東体制への反逆を意思表示したものであった。この事件は、公安当局と軍によって徹底的に弾圧され、反革命事件として処断されるとともに、党中央はその黒幕としてケ小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)(当時、中国共産党副主席・副首相、1997年死去)の責任を追及し、4月7日、彼はあらゆる職務を剥奪(はくだつ)されてふたたび失脚していった。同時にこの事件によって華国鋒(かこくほう/ホワクオフォン)が正式に首相となった。

 中国はこの年の9月、毛沢東の死を迎え、10月には北京政変によって「四人組」が逮捕されるという激動を体験したが、こうして非毛沢東化が進むなかで、1978年11月、天安門事件は「革命的行動」であったと評価が逆転した。以後、この事件は、1919年の歴史的な五・四運動になぞらえて「四・五運動」とさえよばれるようになった。

[中嶋嶺雄]