――LGBT運動によって、当事者が不利益を被ることがあるという内容について。
当事者の中には「そっとしておいてほしい」と思いながら暮らしている人たちが少なくない。しかし、LGBT運動が広がり、この言葉が頻繁に登場すると、「ゲイ」や「レズビアン」であることを否(いや)応なく意識させられて苦しくなるという人がいる。「社会の偏見がそうさせているのだ」という主張があるが、社会がどうあれ、自分の性的指向を受け入れられず苦しんでいる人がいるのも事実。実際、当事者でも「LGBTという言葉で一括(くく)りにされるのがたまらないから、自分はLGBTという言葉は使わない」と言っている人もいる。
「多様性を認めよう」と言っても、男性の体に拒否反応を持つレズビアンに、「性自認が女性なんだから、体が男性の当事者を女性として受け入れなければ人権侵害だ」と責め立てれば追い詰められてしまう。トイレの使用など、性的少数者同士の権利が衝突してしまう場合もある。この問題は現在のLGBT運動では解決できない。
私は、まず自分の「性」のありように向き合いながらどう生きるかを考える姿勢が大切だと思っている。「多様性」「差別」「人権」という言葉をその本質を捉えないまま、自分たちの権利拡大のためだけに、恣意(しい)的に使うと、真摯(しんし)に性に向き合う姿勢を削(そ)いでしまうことになる。それでは当事者のためにならないのではないか。多様性だからと自由奔放に振る舞う人が多くなれば、そうでない当事者まで同じような性行動を取る人間と思われて苦しむことになる。私はそんな問題意識も持っている。
良かれと思ってやったことでも人を傷つけることがある。4年前の大阪市の事例が参考になる。多目的トイレに、LGBTを象徴するレインボーマークを貼ったところ、当事者から苦情が寄せられて中止した。そのトイレを使った人は「LGBT」と思われてしまうからだ。一般の人だけでなく、当事者でもそう思われることは避けたいと思っている人は少なくない。
ゲイやレズビアンにとって、トイレ使用は問題にならないし、そもそも多目的トイレは誰でも使用できるのだから、レインボーマークを貼る必要はなかったのだ。
結局、このLGBT問題について、行政の担当者もよく分かっておらず、一部の活動家の声だけに耳を傾けているから、そんな事態になるのだ。LGBTに関しては、どの自治体でも似た内容のパンフレットを作っているのもその証左だ。
――米国はキリスト教の考え(一組の男女による結婚観)を背景にする社会だが、憲法解釈で同性婚を認めた。一方、キリスト教文化でない日本は、LGBT運動が米国ほど広がらない上、同性婚は法制化されていない。
米国はキリスト教精神を基に建設された理念国家だ。理念と理念の対立による国家崩壊を避けるため、「自由」を国家アイデンティティーにしている。
「自由の国・米国」とよく言われるのはこのためだが、その負の面として、性や結婚においても、信仰を土台とした伝統的な倫理観を守ることを大切にするキリスト教徒と、自由を優先価値とするリベラル派による価値観の対立が最近激しくなっている。
私は、なぜ米国の連邦最高裁判所が同性婚を制度化したかというと、二つの理由があると考えている。一つは、長く続いたリベラル政権でリベラルな思想を持った最高裁判事が増えたことがある。トランプ前大統領が登場したことで、その構図が変わったが。
もう一つはキリスト教社会が一夫一婦制を守りながら、家庭を大切にする社会をつくり切れなかったことがある。男性同士の性行為などを禁じる「ソドミー法」を制定しながら、その一方で、性倫理が乱れて不倫や離婚が横行した。
聖書の教えと乖離(かいり)するキリスト教社会のそのような状況の中で、米国やヨーロッパでは、性的少数者に対して深刻な迫害が現実に起きて、死に追いやられる人もいた。その矛盾への反発が今の運動につながっている。
しかし、米国と違って日本では、法律によってLGBTの人たちを社会から締め出すようなことはしていないから、〝性革命〟を起こす必要性は低かった。
このように、日本は米国と事情が異なるにもかかわらず、米国の運動を学んだ、一部の左翼的な当事者たちが扇動するLGBT運動が持ち込まれた。もともと日本は理念国家ではないので、そうした運動には脆弱(ぜいじゃく)な社会だ。日本における一夫一婦制は明治になってキリスト教文化と国際社会の影響を受けて導入したのであり、もともと理念的な裏付けが弱いから、LGBT運動が広がれば、日本が一夫一婦制を堅持するのは難しくなるだろう。