§「表現の自由戦士」の本質は「エロ表現を守ること」なのか

一般人から表現への批判を受けて、表現の自由戦士が烈火のごとく怒るのは「性的誇張された表現」であることが多い。
それゆえ「表現の自由戦士」を「エロ表現の自由戦士」と揶揄する向きも多い。
では、表現の自由戦士の本質は「エロ表現さえ守られればいい」という思想を根幹に持つ人達と定義していいのだろうか。
しかし、実際には彼らは単に「アニメ絵に見られる性的誇張への批判や揶揄を一切許さないだけの集団」ではないことを次の例が示している。

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もしオタク以外の一般人がこの絵を「何これ? スカートにケツを挟んで歩いてんのか? しょうもない性的誇張すんなよ」と揶揄しようものなら、
男オタクの袋叩きに遭い、「こんなものただの線だろ! これをエロいという奴がエロいんだよ!」というお決まりの展開が見られるだろう。
しかし、揶揄した当人がオタクだと不思議なことに和気藹々とその性的誇張ぶりを「おかしなもの」として認識しながら盛り上がるのである。
言い方を変えれば、オタクに指摘されれば「性的誇張のおかしさ」を理解できるということは、一般人に指摘されて「ただの線だろ!」と激怒しているときも
本当はその描写が「性的誇張のための記号」であることを読めているということでもある。

結局、彼らにとって本当に大事なのは、「エロ表現への批判を許すか許さないか」ではなく、
「一般人によるオタク好みの絵への批判は許されないが、オタクであれば許される」というところにこそあるのだ。

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§「表現の自由戦士」とは結局何なのか

これまで考察してきた「表現の自由戦士」の行動原理をまとめると次のようになる。

・オタク好みの創作への一般人による批判は「表現への放火」「燃やされた」「殴られた」「表現の自由への侵害」であり、とりわけジェンダー論に基づく批判は法規制で罰するべきである
・オタクが気に入らない創作へのオタクによる批判は「放火」でも「表現の自由の侵害」でもなく正当である
・批判という表現はオタクやオタク好みの創作に一般人から向けられた場合は「放火」「殴打」であり、表現の自由の侵害だが、オタクが他人にする場合は正当である

「表現の自由戦士」は特にジェンダー論に基づく批判に対しては非常に過敏で、表現の自由戦士系議員である赤松健氏も「過度なジェンダー平等と戦う」と発言するなど、
「批判という表現に対する法規制や政治的圧力」は先に挙げた人物だけではなくすでに「表現の自由戦士」全体の政治的目標になりつつあるととらえてよく、
もはや彼らは「表現の自由を大事にする勢力」ではなく「オタク好みの創作表現を批判する人達の表現を制限する表現規制派」と見なすべきであろう。

これらの事実から伝わるのは「創作物はオタクの領土であり、また俺達(=オタク、表現の自由戦士)は創作者より偉いから批判をしても許される」、
「一般人ごときが創作に口を出すなどおこがましい」という、オタク>>>>>創作者>>>>>一般人という幼児的な人間観である。
すなわち「表現の自由戦士」とは、「表現の自由」という言葉を振り回した単なる「俺達オタクに創作表現について特権を与えろ、一般人が口を出してくるなら罰しろ」という
「オタクの表現特権論」とでも言うべき考えの持ち主であるとまとめることができる。無論、このようなものは「子どもの駄々こね」であって、思想と呼ぶに値しないし、
「表現の自由戦士」などという大袈裟な呼称はもはやもったいなく、その幼稚さを考えれば「表自園児」とでも表自園児であろう。

オタク的な絵が好きな人にとっては、批判をされるといい気分がしないのは理解できる。しかし、その行く先がこのようなダブルスタンダードの塊のような、
ただの「オタクに創作に対する特権を与えろと喚くだけのわがまま」であってのいいのかどうか改めて考えてみてほしい。

また、結局のところ表現の自由戦士が唱える表現論はどれも最終的には「一般人はオタクの領土たる創作物に踏み込むな。創作物はオタクのものだからオタクは何してもいいんだよ」
というところに帰着するので、彼らの主張に真面目に取り合う必要はないと言っていいだろう。


https://note.com/tsurigane_mushi/n/n6f5c417797d4