実際のところ、「一度でも過ちを犯した人は排除していく」という社会にすることは可能でしょう。ただ、批判している人々も、「自分や家族、友人・知人らが生きる社会をどういうものにしていきたいのか」を真剣に考えたとき、そう言い切れるでしょうか。
 もし自分や家族、友人・知人が何らかの罪を犯してしまったとき、あるいは、思いがけず巻き込まれてしまったとき、「罪の大きさにかかわらず、生きる道を狭められたまま一生を過ごすしかない」という社会でいいのか。真摯に「やり直そう」と努力している人を受け入れない社会でいいのか。この議論が十分ではないため、兼近さん個人に批判の声が向かいやすい状況になっているのです。

 次に目立つ批判は、「多くの人が見るテレビは出演すべきではない」という声。確かに「兼近さんの顔を見たくない」という人もいるでしょうし、その感覚は尊重されるべきでしょう。
 しかし、ネットが発達し、日ごろ「見たいものを選んで見て、見たくないものは見ない」という生活を送っている人なら、テレビでもそれができるはず。「兼近さんを見たくない」という人が多ければ営利企業である民放各局は起用を減らすでしょうし、わざわざネット上で他人の仕事をコントロールしようとする姿勢に恐ろしいものを感じてしまいます。

当然ながら兼近さんがどんな職業を選ぶかは自由であり、それを望むファンもいて、少なくとも彼ら向けの発信をすれば稼いでいくこともできるでしょう。そもそも「笑えるかどうか」という基準には個人差があるうえに、話術に加えて表情や身体の動きなどさまざまな要素が絡むもの。本来楽しいものである“笑い”で、個人の主観を世間の常識に置き換えようとする発想は危険であり、生きづらい社会を作っていくだけでしょう。

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