西鉄ライオンズの黄金期を支えた中西太氏(日刊スポーツ評論家)が、11日午前3時38分、東京都内の自宅で心不全のため死去していたことが18日、分かった。90歳。
現役時代は“怪童”と称されたスラッガーで、本塁打王5回、首位打者2回、打点王3回のタイトルを獲得。
西鉄、日本ハム、阪神で監督を務めるなど、計8球団を渡り歩き、指導者として若松勉、イチローら名選手を育てた名伯楽だった。
すでに通夜・告別式は家族で執り行われた。

“怪童”は静かに天国へと旅立った。希代のスラッガーで、西鉄ライオンズの黄金期を支えた中西さんが11日午前3時38分、都内の自宅で家族に見守られて息を引きとった。
4月11日に90歳の“卒寿”を迎えたばかりだったが、ここ数年体調がすぐれず、療養を続けていた。

 本人から「最期は自宅で…」というのが強い意向で、亡くなる2、3日前からはベッドに横たわるような状態だった
。ここ数年は体調が芳しくなかったが、家族によると「苦しまずに静かな最期でした」ということだった。

 高松一(香川)から走攻守の3拍子そろった選手で甲子園で活躍する。1952年(昭27)に西鉄ライオンズ入り、高卒新人ながら開幕スタメンで出場。
プロ2年目の53年に本拠地の平和台球場のバックスクリーンを越えた推定飛距離160メートルの特大本塁打は伝説になっていた。

 中西さんは同年、今でいうトリプルスリー(打率3割1分4厘、36本塁打、36盗塁)を史上最年少で達成している。
プロ野球選手としては身長172センチと小柄だったが、俊敏で、無類の長打を誇った正三塁手だった。
座右の銘『何苦楚(なにくそ)』が示したように「庭の土の上ではだしで立ち、バットを振った」。手や足から血がにじんだが、強い下半身は打撃に通じた。

 稲尾和久、豊田泰光らがチームメートの西鉄の中心選手だった中西さんは当時監督で、“知将”の三原脩氏から指導を受けた。
博多が本拠で無敵の“野武士軍団”は56年から3年連続日本一を達成。三原氏の長女敏子さんと結婚し、名選手に育った。

 現役時代は、新人王、首位打者2回、本塁打王5回、打点王3回のタイトルを獲得した。
最後は左手首を痛めるなど苦しんだが、弱冠29歳で西鉄監督を兼任し、38年にリーグ優勝を遂げた。
その後も日本ハム、阪神監督を務めるなど球界に貢献した。

 近鉄、オリックスでは、西鉄時代の後輩にあたる仰木監督をコーチとして支えながらリーグ優勝、日本一を達成。
指導者として若松勉、イチローら名選手を育てた。
最後までリビングルームのテレビで高校野球、プロ野球を見守った。永遠の名選手、名指導がプロ野球界に残した功績は大きい。

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