【ジョーカー】映画はサイコパスを作らない。元々サイコパスだっただけだ。 [561344745]
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■日本中に衝撃を与えた事件からひと月…
10月31日に発生した京王線での無差別刺傷放火未遂事件は、日本中に衝撃を与えた。その犯人が2019年に公開された映画『ジョーカー』のような格好をしていたということで、日本でジョーカーの地上波放送ができなくなったのではないか、などという話が、ネットの話題になっていた。
映画『ジョーカー』は、アメコミの『バッドマン』に出てくる悪役「ジョーカー」を主人公にし、悪のカリスマであるジョーカーがどのように誕生したのかを描く作品である。
後にジョーカーとなる主人公のアーサーはコメディアンを目指していた。しかし現実は厳しく、仕事はピエロとして店舗の宣伝などの細かな仕事があるばかり。唯一の家族である年老いた母親を介護しながら、ギリギリの生活をしていた。
やがて仕事も上手くいかなくなり、トラブルから雇い主からクビを宣告されたアーサーは、地下鉄で若い女性に執拗に絡む、立派なスーツ姿のリア充らしき若者3人組に遭遇する。
アーサーは女性を救おうとするが、逆に3人組に暴行を受ける。その時に護身用に持っていた拳銃で3人を射殺してしまうのである。そこから苦悩する中年であるアーサーが、悪のカリスマとしてのジョーカーに至る「転進」あるいは「転落」のストーリーが始まるのである。
今回の事件も電車内で発生しているが、『ジョーカー』のストーリーでも電車での事件が、アーサーの人生を変える大きなきっかけとなっており、映画に影響された犯人が、自身の現状を大きく変えようとして、今回の犯行に至ったという可能性は決して否定できないのである。
だからこそ「『ジョーカー』は犯罪者を生み出す危険な映画である」という見方もできてしまい、当然「ジョーカーのような映画は、多くの人が目にする地上波で流さないべき」という意見が出てくることも止む無しであろう。
■映画の「悪影響」とは
こうした意見が出てきたときに「映画で悪影響を受けるのは当人の問題だ! 普通の人は仮想と現実の区別を付けるから、映画を見ても犯罪を犯さない! 表現の自由を守れ!」という意見を主張するのは簡単である。
しかし僕は最近はこうした意見に、単純には同調しないようにしている。なぜなら、優れた作品というのは常にそれを体験した人に強い影響を与えるからこそ名作と呼ばれるからだ。そして「影響」に良いも悪いも無いのである。
ジョーカーみたいな映画を見て、中年男性の苦しい状況を「現実の1つ」と捉えて、弱者男性の問題を認識する人もいれば、苦しんでいるからと言っても、犯罪を犯して成り上がるという映画のストーリーは、犯罪者を甘やかす架空のストーリーだと考える人もいる。
そして影響を受けた人の中に「自分も犯罪を犯して成り上がりたい」という影響を与えられてしまった、無差別刺傷放火未遂事件の犯人も含まれるのである。
いずれにしても彼らが『ジョーカー』という映画から強い影響を受けたことは、否定できないのである。
だからこそ、たとえ誰かが映画から悪影響を受けたとしても「それが文化である」として受け入れなければならないのである。
たとえ文化の中にマイナス面があったとしても、それを社会の中でしっかりと引き受けて抱え込むことまでを考えて初めて「映画表現という文化を守る」という話になるのである。
※省略
「名作」とは、単純に作品が面白いとか、単純にハラハラしたということではなく、その時代に合わせて清濁併せ呑みながら社会に大きな足跡を残すからこそ名作なのである。
そうした意味で、善良でありたいと思いながら、中年男性の貧困と悪が結び付いてしまう「喜劇」を描いた『ジョーカー』は現代社会にマッチした作品であり、京王線での事件もまた、『ジョーカー』という作品が生んだ、多くの足跡の1つである。そのことを僕は否定しない。
否定するのではなく、強い影響を受けた結果、犯罪などが発生する可能性もあるということを受け入れた上で、それでも人々に強い影響を与えるからこそ、映画という文化は世界中で多くの人に愛される、誇るべき文化なのだということを、主張するべきなのだ。(赤木智弘)
12/1(水) 8:02配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/674a796cd6c859df737a9d6db505e89ea076b8ab
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/r/iwiz-amd/20211201-00089839-gendaibiz-000-1-view.jpg
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