「リベラル化」「知識社会化」した世界は、なぜ「ふつうの人」にとって生きづらいのか?

リベラル化で実現した生きづらい社会
「リベラル化」というのは、「自分らしく自由に生きたい」という価値観で、
第二次世界大戦後のとてつもなくゆたかで平和な社会しか知らない若者たちを中心に、1960年代後半のアメリカ西海岸で始まった文化・社会運動(カウンターカルチャー/ヒッピー・ムーブメント)だ。

それがたちまち世界じゅうの若者を虜にし、パンデミックのように広まっていった。
これはキリスト教やイスラームの成立に匹敵する人類史的な出来事だが、その巨大な影響力をわたしたちはまだ正しくとらえることができていない。

リベラルな社会では、「わたしが自由に生きるのなら、あなたにも自由に生きる権利がある」とされる。
この自由の相互性によってあらゆる差別は許容されなくなり、女性や有色人種、性的少数者など、これまで社会の片隅に追いやられてきたマイノリティに平等な権利が与えられることになった。

これはもちろん素晴らしいことだが、光が強ければ強いほど影もまた濃くなる。

社会のリベラル化が進み、誰もが「自分らしく」生きるようになれば、教会や町内会のような中間共同体は解体し、一人ひとりがばらばらになっていく。
これによってわたしたちは法外な自由を手にしたが、それは同時に、自分の人生のすべてに責任を負うことでもある。
リベラルな社会では、人種や身分、性別や性的指向などにともなう差別はなくなるはずだから、最終的には、あらゆることが「わたしの選択」の結果、すなわち自己責任になるだろう。

誰もが自由に生きられる社会では、至るところで「わたし」と「あなた」の利害が衝突する。
東京オリンピックで、男から女に性転換したトランスジェンダーの重量挙げ選手の出場をめぐって議論が紛糾したことはその象徴だ。

社会のリベラル化はこうしたやっかいな衝突をあちこちで勃発させ、それによって政治は利害調整の機能を失い、行政は肥大化して機能しなくなっていく。
だがいちばんの問題は、複雑な社会(人間関係)にうまく適応できない(一般には「コミュ力が低い」とされる)ひとたちが脱落していくことだ。

知識社会化とリベラル化が引き起こした状況を、グローバル化がさらに加速させる。
国境の壁が低くなったことで、GAFA(Google, Apple, Facebook, Amazon)のようなプラットフォーマーは、世界じゅうからきわめて賢い者たちを集め(ここにはなんの多様性もない)、
地域的・文化的なダイバーシティ(多様性)によってとてつもないイノベーションを生み出していく。
その一方で、移民に仕事を奪われると怯えるひとたちが排外主義や陰謀論を唱え、価値観の異なる者同士が衝突を繰り返している。

わたしたちは人類史上、あり得ないようなゆたかさを実現したが、皮肉なことに、それによって人生はますます生きづらくなってしまったのだ。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/90387