高校国語、今年から改悪 生徒が文学作品に触れることなく卒業する事態に [955949967]
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まず、高校国語がどう変わるのか説明しておきましょう。これまであった2年次からの「現代文」は、実社会で役立つに文章に特化した「論理国語」と、小説・詩を扱う「文学国語」という新しい選択科目に解体されます。問題は、大学入試を見すえて、多くの高校が「論理国語」を選択することです。これにより、多くの生徒が文学作品に触れることなく卒業する事態となります。
――今回の高校国語科教育の改革についてどう思われますか。
契約書や取扱説明書を読めるように「論理」を重視した結果、「文学」を軽視することになっていて、この流れは明らかにおかしい。「文学は論理的でなく、実社会に役立たない」という改革の背後にある考え方がまったく理解できません。
「悪貨は良貨を駆逐す」と言いますが、かつて入試で古文・漢文を除く大学が普通になってから、高校の授業で漢文を教える機会が少なくなっていったように、一度傾斜配点にしてしまうと、文学もなしくずしに教えなくなっていくでしょうね。
――実学重視にひた走る教育にはさまざまな批判があります。
室町〜江戸時代で使われた庶民の教科書『庭訓往来(ていきんおうらい)』を知っていますか。年始のあいさつの文例や、農民と町人が契約を交わす際の定型文といった「これさえ覚えていれば生活に困らないよ」という教養の基本をひな型にまとめたものです。
今回の高校国語の「改悪」は「『庭訓往来』のように定型文を覚えればそれでいいという時代に逆戻りしろ」、と言っているのと同じ。
これをやってしまうと、自分で考えることができなくなってしまいます。明治時代になり、夏目漱石や正岡子規といった文学者たちがやろうとしたのは『庭訓往来』的教育からの脱却です。
自分の目で見たものを自分で考えて、自分で書いた。漱石は新聞の連載小説でご飯を食べていた人で、非常に論理的です。連載1回あたり1000〜1200字の中に「文章の山」をつくり、読者に「明日も続きが読みたいな」と思わせる展開になっています。このように文学は、論理を超越する魅力を持っているのです。
一方、契約書や取扱説明書のような文章には、論理性を超える力はありません。実用的文章ばかりを読んでいるだけでは、人間は受け身になって、発想もどんどん小さくなっていくでしょう。文部科学省は「論理国語」という「庭訓往来」的な教育でつまらない小さい若者をつくっていこうとしているのです。
――文学に触れないことで、ほかにどんな弊害が生まれますか。
「自分の範疇を超えた他者の気持ちがわからない人」に育つに違いありません。
小学校のころに国語の教科書に載っていた新美南吉の「ごんぎつね」や「手ぶくろを買いに」を思い出してください。その人物の気持ちになって考えよう、と授業で習いましたよね。文学は、感情や情緒にかかわる教育も含んでいるのです。
また、現代社会では、カタカナ言葉のように、わかる人同士しか通じない言葉が増えていますよね。自分の知っている範囲だけ、自分のお気に入りの人、同じコミュニティーの人としか会話・交渉できない若者が増え、分断社会を助長するでしょうね。
今回の改革が「感情教育は15、16歳までにきちんとしてある。だから、高校からは論理だけでいい」というなら、怒りは湧きませんよ。でもちがうでしょう。
これから大学入試で少しでも有利になるように、論理的文章ばかり読ませるような国語教育が中学校、小学校と前倒しで行われないか危惧しています。みんなが同じ定型文を覚えてどうするつもりなのでしょうか。文科省がやっている英語教育や英会話もまったく同じです。定型文を覚えることで、表面的な会話はできるようになるかもしれませんが、人と、本当に心を通じ合わせる言葉を編むことはできなくなるに違いありません。
https://news.yahoo.co.jp/articles/43ead7535d42ae6cece05167f8b2fff990b86a30
――文学は論理と対立する概念でないのですね。
前述した通り、文学は論理を超越します。たとえば、物理学者の寺田寅彦は随筆の名手でもありました。物理の知識だけではなく、その背後にある世界観を文学的に表現しています。彼の「天災は忘れたころにやってくる」という警句は有名ですが、こうした論理を押さえたうえで、読ませる文にしていく表現力などを高校の授業で教えるべきなのです。古典もしかり、近代文学には次の時代につながるものがたくさんありますよ。
――「論理国語」では、ディベートなどのアウトプットに重きをおいています。
アウトプットのためにはたくさんインプットしないと。中身がなければ何もできません。
実学重視の日本とは違って、フランスの大学入学共通資格試験であるバカロレアでは、哲学が必須ですよ。アンリ・ベルクソンなどが出され、口述試験もありますから、高校生から普通にロジカルシンキングや哲学を学びます。論理を重視せよというなら、フランスのような入試に変えればいいのにと思います。
文科省は「人を耕す=カルティベートする」つもりがないのだと思いますね。国語科では本来、もっと人間の深い「カルチャー」の部分まで耕すべきなのに、「論理的」で「実用的」な文章を重視するというのは、人間の表層部に機械をつかって種をまいているだけです。
授業の名前を「日本語」でなく「国語」と呼ぶ意味を考えてみてください。決して日本語の文法や知識を教えるだけのものではないはずです。もっと「人間を深くまで耕す教育」であるべきです。 古文なくせ
あんなのは大学で専門にやるやつが学べばいいやつで微分積分より社会でつかわん 国語なんてたくさん文章読めばできる科目だろ
たくさん文章読むにはいい文学作品に触れて読書を好きになるところから始めるんじゃないのか 教養なんてのは頭がよくて金もある家庭の子息に任せときゃええのよ 中学の段階で実用的な文を教えるほうが正しいよね。
義務教育という観点から見れば理屈の上では中卒から働き始めることもできるわけだし。
現実は皆高校行くけど、高校で文学をやるなら中学では実用的な文章作成法を学ぶほうが正しい 論理的な文章を書くことと定型文をおぼえることは全く関係ないだろ
文学を読ませるのはいいけど文学にいく前のところでつまずいてる生徒が大勢いるんだから
そこをフォローしてやらないといけない
いま急速に外国人の生徒が増えてるからなおさら 実学重視(笑)
入試問題に適切なのかが問題であって小説も古文漢文も大事だろ 契約書や取扱説明書を読むのに論理とかいるか?
というかそれは国語という科目で学ばせるものなのか? 派遣モメン「工場の機械のボタンの押し方と段ボール箱の運び方以外は覚える必要ない…」 文芸小説読者は感情の読み取りが得意になる、米研究
文芸小説を読む人は、大衆小説もしくはノンフィクションを読む人よりも他人の感情を読み取ることに優れているとする研究が3日、米科学誌で発表された。研究者らは、文芸小説の読者が他人の内なる感情を読み取ることにより優れているとの仮説を立て、これを証明する研究調査を行った。
調査では、参加ボランティアの一部に、最近文学賞を受賞した文芸小説もしくは短編からの抜粋を読ませ、その他のボランティアにはネット小売り大手アマゾン・ドットコム(Amazon.com)でベストセラーになった大衆小説または米誌スミソニアン(Smithonian Magazine)のノンフィクションを読ませた。
ボランティアらはその後、5項目からなるテストを受け、他人の感情をどれだけ読み取れるかが調査された。テストでは、提示された顔写真を見て被写体の感情を読み取ることや、ある架空の人物がある特定の状況下ではどのように行動するかなどを答えた。
テストの結果、文芸小説の抜粋を読んだグループが最も良いスコアを獲得したという。
https://www.afpbb.com/articles/-/3000808?act=all
他人の感情の読み取りができず定型文ばかり話す人間が量産されたら最高に面白えな >>5
高校は義務教育じゃないぞ
いらないと思うなら行かなきゃいい話 >>16
基本的な文章読解能力は公教育のもっとも大事なところだし
公教育のなかなら当然国語科だろ
実際簡単な文章を読めない生徒がごろごろいるんだよ 論理やロジックは想像力やイマジネーションなくして理解できない
個々の事象を捨象して背後に存在するイデアをつかみ取る力
テンプレ文教育でどうなるかな ◯◯を読んでこの人の気持ちを書けって問題は事前に決められた答え以外書いたら何の説明もなく×されて終わりで深く考える余地なんてなかったぞ >>9
日本が繁栄したのは貧乏士族でも教育水準が高かったおかげやぞ バカを大量に作っておけば、テキトーな世論作って洗脳するの簡単だからね >>24
わいもガキの頃そうおもてたけど結局本文から根拠を見つけられるか読解力を見る問題なんやで >>16
中堅大学のレベルでも新入学生にレポート書かせると内容よりまず日本語がめちゃくちゃってのがあるからな ソース読んだけど期待に反してなんか微妙な反論文だった
とりあえず反対するためにネガティブな材料をその場その場で脈絡なく並べてる感じがした 作者の気持ちを考える教育よりはまだいいんじゃないかな 作家が文学で言いたい事って結局は不倫浮気や自殺の正当化でしょ
そういう作品を書いてきた作家が文学賞の選考委員になって
権威を持って偉そうにメディアに出たりするのって害悪だと思う まあいいんじゃない、なろうやyoutuber見てるのがこの国には似合ってるよ
エンタメは緩やかに死んでいこう 大方の中高生が、文学を楽しむなんていう日本語レベルに到底なってないのにそんなもの教えても仕方がないんよ 文学を読む前に論理が理解できない人間が増えたからしょうがない
まずは正しく文章を読めることが文学に触れる以前の問題だし >>21
おじいちゃんは忘れてるだろうけど中学校でも古文習うぞ んなこと言うなら1億の倭猿にしか通じないゴミジャップ語自体が役に立たないんだが バカの兵隊量産しても
上級のガキの方がアホなのにね 文学作品の「読み方」を教える方がどうかしてる
学校では母語の論理的使用法をまずは教えるべきなので至極真っ当な教育方針だろうと思うよ まあ確かに大人になってより使うのは評論のような文章を読み解いたりする力ではある
けど情緒を読み取る力は全年齢で普遍的に必要だと思うんよな
これを言ったら相手はどう思うかなんてのが欠落してるのが量産されたら大変やで 経済性とは効率化
こんなことをしているといずれは何もなくなる
生きることの本質は無駄なのだから 文学は論理では無いかのような分け方が文学自体をバカにする流れに繋がりそう そもそも入試で文学作品をとりあげても
やってることは評論文と同じで文意を読み取るだけだしな >>45
面接やプレゼンテーションでは、相手の感情の読み解きが重要
論理だけでは通用しない >>51
偏差値の高い高校は文学を教えるだろうから
文学をやった高校とやらなかった高校で階級意識が生じてむしろ文学がもちあげられそうな気がする 高専でてるけど
授業で高校国語の教科書ただの一回も開かなかった
というか学校に持って行ってすらない 古典文学ってけっこう論理的だと思うんだがな
っていうかほとんど哲学入ってるからむしろクソみたいな実用書よりよほど読解力ないと読めない こんだけ国語教育してもだめだから、範囲を絞ってこれだけはできるようになってくれだてことかと
5chは大卒多いと思うけど、それでいてこの体たらくだからな これは賛成
家電取扱い書の正確な読み方とか教えた方が実学的にはマシやろ 100年以上前の明治時代の文学作品を現代文として教えることは妥当なのか?
せめて過去50年以内の作品に限定すべきでは
…みたいな意見は出しました昔 現代文の内容削る前に古文漢文全部カットしろよ
あれこそ大学でやりたい人だけがやればいい内容だ 文系は作者の気持ちでも考えてろ
が煽り文句として通用すると思ってるくらいのバカがいるからな >>61
それ言うなら中学高校の勉強なんて必要ないわ
結局受験なんだよ 古文漢文撤廃で良いけど漢文は割といい話多いからなぁ 論理国語が契約書や取説ってのはさすがに盛り過ぎで実際は評論文だろどうせ 日本の教育は
国語なんかより
批判的思考おしえたほうがいいと思う ネットで簡単に古典に触れられるようになったから古典が要らんとはまったく思わん
芸術系や体育と違ってやればものになるし ディベート重視なら問題ないんじゃないか?
同世代と意見交換を繰り返してるのに視野が狭くなるという理屈がわからない
むしろ文学による思想教育をさせろと言ってるように見えるけどな 役人の考えた答弁や企業の謝罪会見とかに
国民が素直に納得できないのは
国語の教育がなってないからだからな めまいがするほど愚かしい記事だな。文学は娯楽、良く言ってせいぜい芸術の分野であって
学問扱いしてきたのが間違っていたんだぞ。実際そのせいで日本人は論理性に欠如しているんだ
欧米が小学生の頃から論理学や修辞学の初歩、論理的作文、スピーチ、ディベートの勉強をしている間に、
日本はクソの役にも立たん文学ごっこで遊んでんだからな
それをやっと改革しようというのに今更こんなカビの生えた文学主義振りかざして抵抗など愚昧にもほどがある
インプット云々も根拠がない。フランスを類例に挙げているが哲学と文学は違う
そりゃ哲学ならインプットにはなるさ。哲学は事実をもとに論理で組んだものだからな
文学ごときしかも日本の低俗なそれが肥やしになるかよ 有用性とか教養とかいうからドツボにはまる
小説古漢も一定のルール習熟を求める負荷の一形態にすぎんからつべこべいうな
とでも言っとけばいいんだ 「俺は」使わない、だから
「皆が」使わない、だと?
それ論理メタクソだぞ 実のところ明治時代の文学作品で原文で出版されているものはほとんどない
現代語に"翻訳"されたものが市販されてるわけ
「吾輩ハ猫デアル」の原文
https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/790.html
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生まれたか頓と見當がつかぬ。何ても暗薄いじめじめした所でニャー/\泣いて居た事丈は記憶して居る。
吾輩はこゝで始めて人間といふものを見た。然もあとで聞くとそれは書生といふ人間で一番獰惡な種族であつたさうだ。
此書生といふのは時々我々を捕へて煮て食ふといふ話である。
然し其當時は何といふ考もなかつたから別段恐しいとも思はなかつた。
但彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフハフハした感じが有つた許りである。
掌の上で少し落ち付いて書生の顏を見たが所謂人間といふものゝ見始であらう。
此の時妙なものだと思つた感じが今でも殘つて居る。
第一毛を以て裝飾されべき筈の顏がつる/\して丸で藥罐だ。其後猫にも大分逢つたがこんな片輪には一度も出會はした事がない。
加之顏の眞中が餘りに突起して居る。そうして其穴の中から時々ぷう/\と烟を吹く。どうも咽せぽくて實に弱つた。
是が人間の飮む烟草といふものである事は漸く此頃知つた。
これを現代語訳したものを現代文の教材にするわけだが
そうやって現代語訳が許されるならば江戸時代以前の作品をつかっても問題ないだろと
…みたいな論争があったの >「ごんぎつね」や「手ぶくろを買いに」を思い出してください。その人物の気持ちになって考えよう、と授業で習いましたよね。
文学は、感情や情緒にかかわる教育も含んでいるのです。
これも間違っている。この手の課題や出題は、本文に書かれている根拠から論理的に推察する練習
(本文に根拠のない勝手な想像と線引きさせる練習)であって、
つまり文学という低質な教材からでもなんとかして論理性を身につけさせるための涙ぐましい工夫だ
別に情緒を学ぶためなどではないわ そのうち日本書紀も古事記も読まなくていいってことになりそうだ
ありがとう国賊自民党! ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています