私は年末年始の休みを都内で静かに過ごし、毎日長めの散歩をしていた。
散歩は私の趣味で、東京は最適な場所だ。最新の都市開発地や高層ビルの間に、古い民家や商店、神社仏閣がポツンと残っていたりして面白い。

そうやって散歩をしていると、外国人の住民とすれ違うことがある。そういうときはほんの一瞬短い挨拶をする。言葉は交わさず立ち止まりもしない、歩みも緩めない。すれ違いざまにただ目線を合わせて小さくニコッとしたり、軽くうなずいたりするだけだ。

一緒に散歩している妻は毎回「ソレ何なの」とあきれているが、あの0.5秒ほどの挨拶ともいえない挨拶には、外国人同士の互いへの同情と同調がたくさん込められている。短く言えば「ここ(日本)に住むといろいろあるよね」という感情の共有である。

外国人や外国暮らしが長かった日本人が日本の生活で感じる違和感、生きにくさ、制度の問題点や行政の対応のまずさは、日本でしか暮らしたことのない日本人には理解できないところがある。

例えば、私は役所に住民票をもらいに行くたびに、日本国籍を持っているにもかかわらず「外国人登録証を見せて」と言われる。日本人から言わせるとこれは「日本人になった外国人が少ないのだから仕方がない」のだが、私はウンザリするし傷つきもする。

コミュニティーの一員ではない?

買い物に行っても、店員は連れの日本人のほうばかりを向いて話をして私のほうは見ようとしない。これも日本人にとっては「日本語をよく理解しない外国人が多いから」なのだろうが、私はとても嫌な気分になるし見た目の違いだけで永遠にガイジン扱いなんだなと悲しくなる。

このように外国人が日本で感じる「生きづらさ」は、案外そういうことの積み重ねであったりする。それは小さなことなのだが、毎日何かしら同様のことが続くと、自分がコミュニティーの一員であると感じられなくなってくる。

数年前からビジネス界では「外国人雇用」がはやっていて、このテーマを掲げたセミナーやフォーラムがコロナ禍でもたくさん開かれている。興味深いことに講師や登壇者はほとんど日本人で、外国人はほんのおまけ程度にしか参加していない。つまり日本に暮らす日本人同士が熱心に「外国人と働くにはどうしたらいいのか」を話し合っているわけで、これは外国人から見るとなかなか奇妙である。

学校からいじめをなくすための対策会議にいじめられた生徒の意見を取り入れなかったり、女性活躍推進のための会議に女性を入れなかったりといったことと同じ図式だ。これで本当に効果のある対策を立て、必要なスキルを共有できるのだろうか?

こういった話をすると必ず「日本は日本人のものだ、日本人が決定して当然」という批判を受ける。それは至極もっともである。私は何も外国人の参政権を求めているわけでも、日本文化の否定をしているわけでもない。日本が本当に外国人にとっても生きやすく働きやすい社会を目指すならば、外国人の目線に立った対策が絶対に必要だと言っているのである。

外国人が日常生活で感じる多くの問題は、日本人から見れば些細なことなのかもしれない。しかし、日本に暮らす外国人の多くは日本が大好きである一方、同時に日本社会についての不満やクレームを表に出さないように気を配って生きている。それは言っても無駄であり、自分が嫌われて生きづらくなるだけだと感じているからだ。

すれ違いざまの外国人同士の短いサインの交換に込められている、外国人の本音を聞かないことには、外国人の住みやすい日本にはならない。

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