【悲報】北条時宗(30才)「世界最強の蒙古軍が攻めてきた?国力40倍?よし迎撃だ!」→ボロ勝ち これ何だったんだ? [661852521]
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>>661
中止になったとはいえ3度目の遠征計画自体はあったから鎌倉の杞憂とも言えないのがな… >>663
ちょっと違うと思うんだよな
蒙古兵は軽装弓騎兵
鎌倉武士は重装弓騎兵
重装弓騎兵って矛盾してるよな いうて元もフビライ後は衰退に向かってるしな
小国と馬鹿にした国でボコられたから
みんな言うこと聞かなくなったんだよ 鎌倉幕府も元寇で寿命縮んだっていうけど
フビライに屈して貢ぎ物なんか捧げてたらもっと早く滅びただろうね
まだ荒々しい武士が多い時代だし弱腰なことやってたら誰も従わなくなる >>491
金銀あるから占領できたらリターンでかいだろ
>>666
ベトナムかなんかとも戦争して中々倒せてなかったよな
>>620
全力出さずに何回も遠征計画出すのダサすぎないか?大軍用意したのに… >>2
邪馬台国九州説なんかと同じで昔のネトウヨが日本は神国みたいな妄言を広める為に
なんか嵐があったらしいみたいな伝聞で書かれた日記を拡大解釈した >>668
モンゴルには嫡子相続みたいなルールがないから
実はフビライは生まれついての皇帝ではなく
弟と争って帝位を手に入れてるからね
帝位を維持するのにも力を示し続ける必要があって外征を繰り返したのだろう >>665
兵科が分かれてないからえらい人が弓も馬も鎧もぜんぶ持っていく バグダットや南宋の消滅といい世界にとってマイナス面が大きすぎた むしろ元寇にすぐ対応できたのが信じられん
当時九州から鎌倉に知らせが届くまで何日かかるんだ?
そこから援軍用意して駆けつけるまで何か月?
それとも九州の軍隊だけで元寇追い返したの? >>674
・数年に渡って使者(日本への降伏勧告)が来ていた
・九州に来る前に対馬、壱岐で前哨戦があった
・(古来から)太宰府を前線基地として侵略への備えがあった 見逃してもらったというか損切りされたというかそんな感じだろ >>674
基本は九州の御家人で対応してた
関東からの援軍も向かってたけどモンゴル軍がしょぼすぎて
戦場に着く前に終わってた >>670
モンゴル帝国って末子相続のルールがなかったっけ?
なんかの勘違いか? 正規蒙古軍が来てなかったらしいやん
士気の低いシナと朝鮮の派遣軍で拠点補給地の利が揃ってる鎌倉武士に適うはずが無い
仮に3回目来てても同じ結果だろう >>674
ある日突然元寇で襲来された訳じゃなく
元からの使者も来てたし元に圧迫される宋から情報も収集してたからちゃんと防衛体制を強化してた
神風による強運だとか鎌倉武士世界最強だとかそういう要素は排除して考えたほうがいい >>663
蒙古兵は逃げながら後方に撃つパルティアンショットに
慣れてるしヨーロッパでも使いまくってるけど
鎌倉武士にそんな戦術はない しかしそのモンゴルにSUMOUで侵食されてると考えると感慨深いな >>654
ちょうど承久の乱で上皇にさえ逆らってオラついてた奴らだって言うのは有るな、鎌倉武士
太平の時代とか行って平和ボケしてた江戸時代にやられてたら終わってた。 >>678
末子相続というか年長は次々独立していって
親父が死ぬころようやく末っ子も独り立ちするから
その財産を事実上引き継いでしまうみたいな感じじゃなかったっけ >>678
実際のところは子供が成人する度に分与していくから
最後の子供が残ったものを多く取れるというだけの話 日本の武士も鎌倉時代までは分割相続が主流だったんだよね
兄弟がいれば土地が分割されていくから御家人が貧しくなっていく
相続争いでの訴訟も増えるし幕府による訴訟の処理が滞ったりもする
そういった不満が倒幕に向かっていったという一面もある 元が調子こきすぎてただけでしょ
秀吉だって朝鮮落とせなかったじゃん
あの海は支配者が想像する以上に広く、深かって >>28
一生懸命ひねり出したんだぞ、鎌倉は
あとこの文永・弘安の役のあと九州探題とその下の兄弟がいろいろ争って九州に余剰地が出たのも有効利用した >>691
今や何の障害にもならんから
みんなで竹島取りにきてるな >>21
弘安の役から鎌倉滅亡までは50年もある
恩賞の不足からくる不満なんてのより、兄弟で分割相続が原則のための領地細分化、貨幣経済発達による土地の証券化で売買が容易になって争議頻発、政治的には高時の無策で長崎親子に見る腐敗、西国の守護の元に悪党が離合集散なんかが原因だろ
滅亡寸前までそれでも北条政権は盤石としか思えない全国支配をしてた。北条一族はほとんど裏切り者無く鎌倉で団結して戦って討ち死にした。求心力はまだまだ高かったが得宗家とずっと婚姻関係を結んで幕府内で二番目の家柄だった足利家の裏切りが武力・政治的にはやはり大きくついた この時代の最強国家がモンゴル、
次に強いのがモンゴルが最も力入れて攻め込んだであろう南宋だとして、
日本の鎌倉幕府はどの程度の強さだったのだろうか? 鎌倉幕府は源氏が3代で滅亡、執権北条氏が実権を握りました
みたいなこと教科書にあるけどその北条執権も後半はお飾りになってんだよな >>695
モンゴルの服属要求に屈していたほうが幕府の寿命は短くなってたろうね
北条氏なんて元来はたいした家格でもないのに日本を支配してたわけだから
弱腰なところを見せれば国内の反対勢力に突かれるからね 将軍を補佐する執権を誰にするか決める北条本家当主が一番偉い 北条時宗「世界最強って言ったってどうせ来るのはチョン軍団だろ。じゃあ大丈夫だ」 モンゴル軍の数が少なかったから
鎌倉武士はモンゴル軍の2倍以上の兵力で守ってる
海渡っての戦でモンゴル軍が利を行かせない以上、数で優る防衛側が負けるわけない >>663
モンゴルは移動し続ける外征部隊としての純粋に騎馬で構成された騎馬部隊、日本のは後ろに郎党が徒歩で付いてくる奴で基本的に自分の領地の周囲をどうにかするだけの小集団が戦の時には沢山集まって大集団作るだけ
騎馬と徒歩兵と従者で出来た小部隊の集まりだから全然違う気がするけどな モンゴル騎兵は人より馬の方が多い(乗り換え用)
武士は馬より人が多い(お付きが運動会よろしく徒歩でサポート)
というイメージ
平原で流鏑馬で対抗しようとしたら統率された弓騎兵にグルグルされながら華麗に面制圧決められて終わりそう >>663
元寇の兵って殆どが朝鮮と中国の兵士だからモンゴル騎兵なんていないぞ 当時の京都と関東平野間のメインルートが中山道で、中山道ってのは峠と川沿いの細道が延々と繰り返される訳で、そんな長距離移動こなすのは騾馬に近いリピザみたいな丈夫で脚先が器用な軍馬系だわな
他には太平洋岸を舟で移動ももあるだろうけど黒潮に呑まれたら90%くらいの確率で死ぬ 日本海東シナ海が天然の堀になってるし
西日本は海と山の間にちょこっと平地があるだけだから大軍駐留させる場所もない 三浦氏は鎌倉幕府初期でトップクラスに山岳騎乗超得意だったけど
時宗より三代前執権の時頼が一族を滅亡させちゃったから元寇では活躍しない
相模三浦氏として再興するのはまだ先のこと 近代の軍隊みたいに大部隊を統制して戦うなんて発想がなかったから
(ようやく戦国末期にそれっぽいのができてきたらしい)
防塁をつくって「持ち場を決めた」のが大きいって話は読んだことあるな あの当時の技術じゃ大軍で上陸作戦なんて難しすぎるからな
結局どの上陸地点でも圧倒的な兵力差で開戦なんてできなかった モンゴル遠征軍の総大将はヒンドゥだのアタカイだの訳わからんカス
バトゥやフレグみたいなチンギス統の大物がやった西征とは重要度が違う
邪魔な南宋残党を捨てに行ったついでに島国取れたら美味しいな程度の見通し ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています