>>75
そもそも旧制やん

ウィキペディア読むと灘だからってわけじゃなくて、父や兄は東京帝大卒の家系なのに、自分はことごとく落ちたからだろうな

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%97%A4%E5%91%A8%E4%BD%9C

遠藤は1939年に正介の影響もあり、四修で三高[3][要ページ番号]を受験するが敢えなく失敗している。
1940年、再び三高を受験するが失敗、広島高も失敗。この為、阿川弘之等の広高出身者に対しては尊敬の念を抱いていたらしい[要出典]。
遠藤は同年に183名中141番の成績で灘中学校を卒業し、浪人生活に入った。なお、同年、正介が一高を卒業し東京帝国大学法学部に入学。
正介は郁の帰国から数年遅れて帰国した常久の、世田谷経堂の家に身を寄せている。

1941年に再び広島高などを受験して失敗。同年4月に上智大学予科甲類(独語)に入学するが、翌1942年2月9日に退学している[注 1]。
同年、浪速高と姫路高と甲南高を受け、全て失敗している。この頃に肺を病み、喀血している。

遠藤は郁にこれ以上の経済的負担をかけることを恐れ、1942年に東京帝大を卒業し逓信省へ入省した正介の仲介で、常久の家に移った。
常久が出した同居の条件は「旧制高校か医学部予科のどちらか」に入学することだった。
しかし、遠藤は東京外国語学校、日本医科大学予科、東京慈恵会医科大学予科、日本大学医学部予科に不合格となり、
慶應義塾大学医学部予科には自信がなかったため、常久に告げず同大の文学部予科を受験、補欠合格。
翌1943年4月に慶應義塾大学文学部予科に入学する。医学部予科を受験したものと思っていた常久は真相を知らされ激怒、遠藤を勘当した。