>>78
これ嘘なんか?

過去、竹島でやった南朝鮮人の残虐行為

李承晩ライン(李ライン)
1952年、韓国の李承晩大統領が行なった、一方的宣言によって規定された領海水域。
同宣言により朝鮮半島周辺(最大二百マイル)の水域内に存在する、すべての天然資源、水産物を利用する権利を主張した。
日本側はこのラインを認めず、結局65年の日韓漁業協定で李承晩ラインが廃止されるまで、韓国軍による日本漁船の拿捕が続いた。

李承晩ライン廃止までの抑留者数・拿捕された船の数および死傷者数
抑留者数:3929人
拿捕された船の数:328隻
死傷者数:44人

死者の中には、娘が生まれたばかりの若い漁師も居た。
赤ん坊は、生後数ヶ月で父を殺された。
抑留された被害者は、日韓漁業協定が成立する1965年まで抑留され、韓国に人質として利用された。
その年月、最大13年。
日本政府は、彼らを帰してもらうために、在日朝鮮人の犯罪者を仮釈放して、在留特別許可を与えた。
その犯罪在日朝鮮人の数、472人。

1952年1月18日、李承晩(当時)大統領は講和条約発効を待たずに突然、漁業権確保を目指して海洋主権宣言を発し、朝鮮半島周辺海域に一方的に勝手な線を引いてしまった。

有名な『李承晩ライン』で、竹島もこの李ラインの中に含まれると主張した。
この線は1965年6月22日の日韓基本条約調印による国交正常化で消滅したが、竹島問題は解決せず棚上げされたままになった。
その後、日韓両国は互いに領土権の主張をくり返したが、韓国は島に調査団を派遣したり、わが国の巡視船に発砲するなど緊張した状態が続いた

そして1978年4月30日、韓国は一方的に領海12カイリを断行し、以後、竹島周辺12カイリからわが国の漁船を締め出した。
わが国は1953年6月、島根県と海上保安庁が合同で領土標識を建てた。しかしその翌年1954年7月から、この東島に韓国警備隊員(警察)が常駐し不法占拠を始めた。
日本政府はこれに抗議し、同年9月25日、国際司法裁判所への付託を提案したが韓国はこれを拒否し、
その後も1997年11月には船舶接岸施設を、翌1998年12月には有人燈台を造るなど、監視所、兵舎、アンテナなども次々と設置し強化した。
海上保安庁と島根県は、ここにいた韓国人に退去を命じ、四度にわたって日本領土の標柱を立てたが韓国はその都度武力行使で排除し、
わが国の主権が行使できない状態が続いている。