公式記録によるとダコタ氏は海軍で4年間、対戦車ミサイル砲手として勤務していた。実際の戦闘に参加したことはないが、アフガニスタンに滞在したことがあるという。

ロシアと戦うために、退役した後に入った大学の最初の学期で中退した。「正義の憤り」が彼を駆り立てたという。彼はロシアのウクライナ侵攻後、数日で現地に到着した。彼の米国製の対人兵器「ジャベリン」(数千丁がウクライナ軍に譲渡された)の知識を生かそうと、司令官たちは躍起になったという。

ダコタ氏の外国人部隊は、ウクライナ軍の部隊に所属し、黄色いスクールバスでキエフに運ばれ、そこから北西に向かい、首都郊外の漠然とした町に派遣された。3月上旬のことである。対戦車兵器とジャベリンミサイルは支給されたが、発射装置用のバッテリーがなかったという。電源がなければ、装備は作動しない。

「民家が燃えていた」とダコタ氏は振り返る。森をパトロールするため、彼の部隊が集まってきた。指揮官が手で合図した。「あそこは全部、ロシア軍だ」。
砲撃が始まった。ウクライナ人とその義勇兵は散り散りになった。塹壕に入る者もいれば、民家に入る者もいた。ある廃屋には、まだクリスマスツリーが飾られていたという。ロシア軍の攻撃が激しくなると撤退することになり、負傷した仲間をその場に残して夜通し泣き続けたとダコタ氏は言う。

ダコタ氏の部隊では、2日目の夜が明けるまでに、20人の志願者のうち8人が持ち場を離れたという。その中には、海兵隊の退役軍人がいて、自分の機関銃を石で壊して、武器が無いと言い訳をしたものがいた。また、負傷したふりをした者もいたという。

ダコタ氏はキエフ全域で戦い、その後、ジャベリンの使い方を教えるために南部に派遣された。ある任務では、ジャベリンがロシア軍戦車の熱源を補足できず、ロックすることができなかったという。その時、4人のロシア兵が車体から出て、座ってタバコを吸った。すると、その温度で照準が合った。ジャベリンのミサイルは戦車を粉砕し、その様子はビデオに収められた。