反出生主義を論破する方法はいくつかある。その一つは「反出生主義者が生きるためには他者の出生を必要とする」ことを指摘する方法だ。

反出生主義者は新しく子どもがこの世に生まれることを悪とする。
一方で、反出生主義者はすでに生まれた人間がその後も生き続けるか、それとも自殺するかはその人間に任せることにしており、
生むことは悪であるが、生まれた人間が生きようとすることは悪ではないとする。この二つは倫理的に矛盾はないように見えて、実は無理をしている。
というのは、人間は他者からの何らかの援助を受けて生存しているからだ。
ある人が生きつづけて、歳をとったとき、その人の食べる食べ物を作るのはだれか?
その人が病気になったときに治療するのはだれか?その人の住む家を建てるのはだれか?
それはその人以外のだれかだが、その人は歳をとった段階では、自分より年下のだれかにならざるを得ない。
自分が90歳のとき、この世にいる人間のほとんどは自分より年下、つまり自分よりあとに生まれた人間ということだが、
自分よりあとにだれかが生まれないと、人間は援助を得られず、生きることができない。
反出生主義者が生きるためにはだれかの出生という犠牲をともなう。反出生主義者は、人が新しくを生まれるという悪を享受するかぎりにおいてはじめて生きることができる。
これは倫理的に無理があると言わざるを得ない。他者に出生という犠牲を強いることを反出生主義者は否定するが、
それならば反出生主義者は他者の出生を強いる自己の生存も否定せねば筋が通らない。つまり倫理的に完璧な反出生主義者はその命を絶たねばならない。