「誰もが実際、自分の立場から見れば正しいのである」(三〇三頁)と、アイヒマンは書く。それぞれの民族ごとに異なる正義と真理が存在する(国民社会主義者には「ドイツ的物理学」と「ユダヤ的物理学」の区別さえ存在したという)。
こうした前提のもとアイヒマンは、「ただ一つの人種だけが生き残る避け難い人種間戦争で最終勝利を収めることが不可欠」(三〇二頁)だと信じていた。
だから「敵の絶滅」は正当化されるのである。一方、普遍的な道徳と哲学はそうした闘争の宿命性を否定するのだから、総じて誤っている。
「あらゆる人間が理解し合える可能性を考えるだけで裏切りなのだから、理性も権利も自由も人間の相互関係を貫くものとして役立ちはしない」(三〇四―五頁)。
普遍性を否定し、あくまで自らの民族の勝利を目指す。それが、「アルゼンチン文書」から見えてきたアイヒマンの思考の本質なのである。

 アーレントが見たのはあくまで、モサドによる拘束後、「役の変更」が行なわれてからのアイヒマンにすぎない。
〈エルサレムのアイヒマン〉はこうしたナチとしての自己をたくみに隠し、自己演出を図ったのだ――。

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