敗色濃厚となった1945年4月1日、沖縄本島にアメリカ軍が上陸した。そこで大本営は、現地守備部隊である第32軍に、
それまでの持久戦戦略から、積極的攻勢を強く命令した。
その中には奪取された飛行場を取り返すことも含まれていた。よって、
第32軍は7日に大規模な攻勢に出ることを決定する。

 大本営は、第32軍の攻勢を軸に「特攻」をメインとする、
大規模な航空機による支援を決定する。そこで微妙な立場におかれたのが海軍である。
神重徳大佐のような参謀たちが中心となり、部内を説得し、
海軍も「海上特攻」部隊を派遣することが5日に慌しく決定された。

 このような海軍の動向には、昭和天皇の意向が反映されたといえる。昭和天皇は及川古志郎軍令部総長に対して
「海軍にはもう艦はないのか、海上部隊はないのか」と「御下問」があった。それを重く受け止めた軍令部総長が、
指揮下にある聯合艦隊に対して部隊の派遣を求めた。豊田副武聯合艦隊司令長官は、
大いに発奮し、その結果、5日に戦艦大和を旗艦として、軽巡洋艦矢矧ほか駆逐艦8隻を合流させて、第2艦隊として出撃させることになる。
結果として駆逐艦2隻のみが損害を受けつつ生き残る。
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