劉備(りゅうび)に仕えた武将に、趙雲(ちょううん)という忠臣がいる。字(あざな)は子龍(しりゅう)。関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)より少し遅れるが、早くから劉備に仕え、蜀漢(しょくかん)建国後の三国の争いの時代まで生きながらえて活躍を続けた。その功績から『三国演義』では、関羽や張飛と並ぶ五虎将(ごこしょう)のひとりにも数えられている。

また、本場の中国では昔から「一呂二趙三典韋(てんい)・・・」と謡(うた)われ、その強さは呂布(りょふ)に次ぐナンバー2で、関羽・張飛以上とされるほどだ。彼の見せ場は数々あるが、その第一は、なんといっても長坂坡(ちょうはんは)。劉備の子・阿斗(のちの劉禅)を懐に抱え、曹操(そうそう)軍の大軍のなかを単騎で疾走する場面である。

この場面などに象徴されるが、多くの方は趙雲に颯爽とした若武者像をイメージされるだろう。実際、中国の京劇や映画・ドラマにおいて、趙雲は呂布や馬超と同様に美形の役者が演じることが多い。中国の連環画(れんかんが=絵本)や、現地の銅像などを見ても、関羽・張飛のようなヒゲはなく、そのせいか両者より若く醤油顔のイケメンとして描かれている。

実際、趙雲は身長が8尺(約184cm)あり、「姿や顔つきが際立って立派だった」と、正史『三国志』の「趙雲伝」に引用される『趙雲別伝』にも記される。近代中国における美形ビジュアルは、こうしたものが反映されたと考えられよう。

ところが、このイケメン像が日本にも反映されるようになったのは、比較的最近のことなのだ。それは『三国演義』が日本へ入ってきたころのビジュアルからも分かる。江戸時代に描かれた『絵本通俗三國志』の挿絵(葛飾戴斗)をはじめ、歌川国芳(うたがわくによし)などによる浮世絵では、趙雲は濃いヒゲをたくわえる豪傑として描かれていたのだ。たとえば、この酒甕(さかがめ)を抱えて酒を注ぐ場面など、張飛とほとんど区別がつかない。

当時、正史は日本にも入ってはいたが、広く読まれることがなく、民間では『三国志通俗演義』などの通俗小説がベースになっていた。先の国芳らは、そこから趙雲を張飛に似た荒武者ふうの豪傑とイメージしたようである。

これが踏襲されたのか、漫画作品の先駆け『三国志』(横山光輝・1971年)に登場する趙雲は、ヒゲこそないが恰幅が良く、がっちりした体格のキャラクターとして描かれた。中には、この趙雲を評して「ドカベン」と呼ぶ人もいる。

しかし、そのイメージがガラリと変わったのはNHKで放送された『人形劇 三国志』(1982年)からだ。人形の生みの親である川本喜八郎は、趙雲をスマートな色男に造形したのだ。ひと目見れば、もう惚れ惚れするような格好良さである。

あくまで憶測になるが、この影響は大きかったとみられる。直近の例でいえば、1983~84年に本宮ひろ志が『週刊少年ジャンプ』に連載した『天地を喰らう』で、趙雲を長髪の美男子に描いている。本宮が人形劇に影響を受けたという確証はないが、他のキャラクターを見ても人形劇のイメージに近い。

ゲームにも「イケメン趙雲」が現れた。1985年に光栄(現・コーエーテクモゲームス)から発売されたシミュレーションゲーム「三國志」に登場する趙雲は、非常に颯爽とした凛々しいグラフィックだった。初代『三國志』は、中国の連環画を参考に描かれたと思われ、以降『三國志II』『三國志III』と、シリーズを重ねるごとにイケメン化は進んでいった。『真・三國無双』は趙雲がデフォルトキャラに設定されているが、それは言うまでもなく二枚目のイケメンである。

こうした映像やゲーム作品の影響もまた非常に大きく、趙雲=イケメンのイメージは、いまや完全に定着したということができよう。

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