369年に百済(京畿道が中心地)と倭が交易を開始(倭に七支刀を贈る)
371年に百済は高句麗の平壌城を占拠
372年に百済王が鎮東将軍領楽浪太守に封建
391年に高句麗の広開土王が即位
391-396年の間に"高句麗の属国"であった百済・新羅を"倭の臣民"にしたため百済攻めを開始(大義名分?)
   この前後に新羅が高句麗と倭の両方に王子を人質に出す
396年に高句麗が百済を攻め漢江以北を奪還し臣従させ倭国と手を切らせる
397年に百済が太子腆支を人質に倭の軍事支援をえる
400年前後に新羅の首都を倭軍が占領し高句麗がそれを討伐
404年に帯方郡にいた倭軍を撃退
407年に高句麗は攻めてきた倭軍を撃退 百済の6城を奪う
倭が百済や新羅を攻めて軍事力で権益を得ていた時代はこの10年前後だけと思われる
427年に高句麗は奪回した平壌城に遷都し百済攻略を本格的に開始
438,451年478年に倭の五王が宋へ朝貢し451年「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓」の都督を任命された(北魏・宋にとって重要な百済の都督は認められず、役職も高句麗・百済より下のものだった)
454年には高句麗が新羅領に侵入して戦闘 この頃から新羅は高句麗から独立し始める
   この頃は高句麗は北魏と親交し、百済は宋と親交していた
475年に高句麗の長寿王は百済の首都漢城を包囲・占拠し百済は一旦滅亡
   百済は南の熊津(公州市)で復興する 合わせて小国が分立していた伽耶地方への南進が始まる
501年に百済の武寧王が即位し西南部を中心に領土拡大が進み倭との関係も深まる 
510年頃から百済は伽耶を攻め始め、それに合わせて倭とは「南方進出の了解&軍事支援」と「五経博士の派遣」の取引が始まる
 百済に任那4県を割譲(支配力はなかった土地の所有権主張を放棄する代わりに返礼を受けた?)
513年に伴跛国から己汶、帯沙を奪い西南部の権力を確立し、伽耶中心へ向け東進を開始する
この500-550年頃に全羅道栄山江(朝鮮西南部の海沿い)周辺で古墳が作られる(百済南進の容認・協力への見返り?)
524年に伽耶の中心的国家であった金官(魏志でいう狗邪韓国)を新羅が攻め、金官は倭に援軍を要請
532年、倭の仲介の効果はなく金官は滅ぶ 安羅は百済に救援を頼む
550年頃、百済は高句麗との対立が深まり百済から倭への支援要請が増える(代わりに学者や人質もらう)
551年に新羅は小白山脈を超えて高句麗の10郡を奪う
552年に百済・新羅は協力して高句麗の漢城を奪い返す だが漢城は新羅が占拠 これにより百済・新羅の関係は悪化
554年、大伽耶・倭国からの援軍を得た百済王は新羅の函山城を攻めたが戦死
  百済王の死亡の混乱の中で562年までに伽耶地方の大半が新羅が占有される
564年、新羅は北斉に朝貢し、その翌年「使持節東夷校尉楽浪郡公」
  伽耶奪回の為に百済と倭は協力して新羅を攻めていたが570年頃になると倭→百済への支援が邪魔な新羅は倭に「任那の調」を送ると倭は満足して支援をやめた
577年に百済が新羅に侵攻した際は倭は協力しなかった
579年を最後に百済は新羅への積極策をやめ軍事行動はとらなくなる
589年、隋が中華統一 高句麗・百済、少し遅れて新羅が遣いを送る
600年頃、百済・高句麗は協力して新羅を攻める 任那の調が滞っていたため倭もこれに協力する
618年、隋が倒れ唐が建国される
642年、百済は新羅の伽耶方面へ侵攻し40余りの城を陥落させて新羅に大打撃を与える
643年頃から百済は高句麗と和睦し新羅へ侵攻 新羅は唐に援軍要請を出す
660年に唐より13万の兵が派遣され唐新羅連合軍に敗れ百済は滅亡した
663年に倭は百済王子(人質)と共に過去最大級の軍勢を送り白村江で大敗 百済は完全に滅びる
668年には高句麗も唐の侵攻で滅亡
670年には百済領をめぐって唐と新羅の衝突が始まり
678年に唐は新羅征討を断念した