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ベルギーとコンゴ民主共和国。先月末、その暗い歴史が改めて世界の注目を集めた。

 6月20日、かつてベルギーの植民地だったコンゴ民主共和国の初代首相パトリス・ルムンバの金歯1本が親族に返還された。
「コンゴ独立の英雄」とされたルムンバ(1925年~61年)は、首相就任から数か月後に暗殺され、遺体の大部分が硫酸で溶かされてしまったため、金歯だけが戻ってきた。

ベルギーとコンゴのかかわりは19世紀後半から20世紀初頭にかけて、
国王レオポルド2世(在位1865年~1909年)が中部アフリカに位置するコンゴ地域の一部を「コンゴ自由国」(1885年~1908年)
として私領地化した時から始まった。自由国の面積はベルギーの80倍にもなる。

 コンゴ自由国の住民たちは世界的需要があった天然ゴムや貴重な象牙の採集のために強制的に働かされ、ノルマを達成できないと手足が切断された例もあったという。
当時、コンゴに駐在していた英国領事ロジャー・ケースメントがその残酷さを記録している。

 レオポルド2世が統治した23年間で、飢餓や過酷な労働による疾病によって1000万人以上が亡くなったという。

コンゴの富がベルギーを豊かにした
 1906年、レオポルド2世は鉱山会社「ユニオン・ミニエール」を立ち上げ、コンゴの鉱物資源の搾取に力を入れた。獲得した富はベルギー経済に投入され、産業化を加速させた。
 1908年にベルギーの植民地となった後も、コンゴはベルギー経済に大きな役割を果たし続けた。

 1929年までに、英国との合弁会社となったユニオン・ルミエールは世界最大の銅生産企業となり、1960年代末にはコバルト生産でも世界一の企業となった。コンゴの総収入の約半分、輸出の70%を同社が生み出した。

 ユニオン・ルミエール社は思わぬところで日本と結びつく。英フィナンシャル・タイムズ紙のニール・ムンシ特派員によれば、
1945年、広島・長崎に投下された原子力爆弾の原料ウランは同社がコンゴから採取したものだったという(2020年11月13日付記事)。

 レオポルド2世の暴政に国際社会からの非難が高まり、1908年、ベルギー政府は植民地憲章を制定し、国王に補償金を払って、自由国をベルギー領コンゴとした。

 1960年、ベルギー領コンゴは独立を果たして「コンゴ共和国」となり、クーデター、内戦などの激動期を経て現在の「コンゴ民主共和国」(首都キンシャサ)となった。北西の隣国が元フランスの植民地で今は独立国となった「コンゴ共和国」(首都ブラザヴィル)だ。

ルムンバ暗殺事件
 暗殺までの経緯をたどってみる。

 1960年、コンゴ共和国が誕生した時、ルムンバは34歳だった。政権移譲の式典で、ベルギーのボードワン国王は植民地政府による統治を称賛し、レオポルド2世がコンゴを「文明化した」と述べた。
レオポルド2世がコンゴを私有地化した際の犠牲については一切触れなかった。

 一方のルムンバはコンゴ住民が直面した暴力や不名誉、「力づくで強制された屈辱的な奴隷制度」に言及し、コンゴ側の出席者から大きな喝さいを浴びた。
ベルギーの作家ルード・デ・ウィッテの『ルムンバの暗殺』(1999年、未訳)によると、ベルギー側は驚愕したという。アフリカ住民が欧州人の前でこのようなことを口にするのは前代未聞だった。

 ルムンバの演説は「自分で自分の死刑宣告を書いたようなもの」と評する人もいる。翌年の暗殺は米ソの対立による冷戦、そして独立後も支配力を維持したいと願うベルギーの思惑の中で発生した。

 米国や英国にとってルムンバは冷戦下の敵・ソビエト連邦にシンパシーを持つ危険な人物だった。デ・ウィッテの本が起爆剤となってコンゴ議会の調査委員会が発足した。
殺害にかかわる状況とベルギー警察の関与を調べた、その報告書(2001年)によると、米国および英国にはルムンバの殺害計画があったという。