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石田堤の遺構が出土 隣接する寺の盛り土が新たな堤と判明 行田市・忍川沿い

 戦国時代に豊臣秀吉の側近の石田三成が、現在の埼玉県行田市にあった忍城を「水攻め」した際に築かせた「石田堤」の基礎部分の遺構が、県埋蔵文化財調査事業団による市内の発掘調査で出土したことが分かった。この結果、遺構に隣接する寺の盛り土が現存する新たな石田堤と判明。石田堤の盛り土は、これまで県と鴻巣市の指定史跡二カ所のみ現存が確認されていて、今回が三カ所目となる。(菅原洋)
 事業団によると、発掘は二〇一八年に県道の拡幅工事に伴い、行田市堤根の中通南遺跡で実施。その後、出土品の整理作業に当たり、遺構の位置や関連する過去の発掘などを分析した結果、基礎部分と隣接する永徳寺の盛り土が石田堤との結論に至った。

 発掘面積は約四百二十平方メートルで、人為的に土を固めた基礎部分が下幅約八メートル、高さ約六十センチ、長さ約二メートルにわたり出土。発掘地点には盛り土はなかったが、隣接して同寺の境内があり、出土した基礎部分の延長線上に長さ約五十メートル、高さ二〜三メートル程度の盛り土があることから、これを現存する石田堤と判断した。
 発掘では、古墳時代を中心に土器や埴輪(はにわ)などの破片が計約三十点出土。周辺の古墳から盛り土に使う土を運んだとみられる。
 発掘地点は忍川のそばで、川沿いには南へ約五百メートルの場所に県指定の堤が、その堤近くのさらに南に鴻巣市指定の堤が、それぞれ三百メートル前後現存している。
 発掘結果を分析した事業団の滝瀬芳之主任専門員は「発掘した基礎部分は規模が大きいため、石田堤と考えられる。永徳寺の盛り土は石田堤という伝承もあった。一般的に寺には土塁などの盛り土が残るケースがあるが、今回の発掘により、盛り土が石田堤と裏付けられた」とみている。