このように、前書きから大変手厳しい。第一節の「中国黒幕党」では、習近平主席が過去に、父親である習仲勲(しゅう・ちゅうくん)副首相と母親・斉心(さい・しん)女史のコネに頼り切っていたことを暴露している。

 〈 習近平は父・習仲勲との関係の中で、浅からぬ利益を得てきた。習仲勲は疑いもない資質と経歴を有した中国共産党のリーダーであり、毛沢東時代の一時期、宣伝部長も担当していた。

 1980年代の初め、習近平が河北省北部で県(日本の郡にあたる)の書記を担当することになった時、母親が河北省の高揚(こう・よう)書記に手紙を書き、習近平をよろしくと頼んだ。

 だが高楊書記は、河北省の党常務委員会議でその内容をばらしてしまい、習近平は非常にバツが悪い立場に置かれてしまった。なぜならそうした行為は、幹部の特権的な制度に反対する新たな規定に違反していたからだ。

 習近平は、永遠にこの一件を忘れなかった。2009年に高楊が死去した時、葬儀に行くことを拒絶した。両者とも中央党校の校長を務めたのに、習近平は慣例を破ったのだ。

 当時、福建省党委書記の父親は、習仲勲の旧い親友だった。それでありえないことに、両家族で示し合わせて、(河北省から)習近平を福建省に転勤させたのだ。

 習近平は福建省でも、一向にぱっとしなかった。1988年、ある地方の選挙で、習近平は現地の常務副市長に落選した。それでもその後、別の地域の党委書記になった。だがそこでも凡庸だったので、ずっと出世できなかった。

 中国共産党の官界では、地方庁級(地方中堅幹部)から省部級(大臣・県知事クラス)に上がれるかが一つの「関門」だが、習近平は長くこの壁を越えられなかった。そこで一族が再び介入した。

 1992年、習近平の母親が新たに福建省党委書記に就いた賈慶林(か・けいりん)に、お願いをした。すると習近平は、省都の福州勤務となった。そこから飛躍の道を歩み始めたのだ 〉

 第二節の「共に享けた福」では、トウ小平氏が個人崇拝を禁じ、共産党の内部が民主化されていったことで、習近平の出世の道が開けたと書いている。

 〈 (党内の民主化は)ますます成功し、胡錦濤(こ・きんとう)は過去にない制度―政治局委員(トップ25)は党の幹部たちの投票で選ばれた人を就けるという制度―を作った。だが皮肉なことに、まさにこの準民主的な制度が、習近平を権力の頂点に立たせたのだ。

 2007年、中央委員会拡大会議で、400人余りの高位のリーダーたちが北京に集まり、200人の部長級(大臣級)幹部の中から政治局のメンバーとなる25人を推薦した。すると習近平がトップとなった。それはおそらく、習近平の浙江省と上海市での成績がよかったからではなく、父親が党内で尊重されていたのと、退任した長老(江沢民)の支持と圧力によるものだ。

https://news.yahoo.co.jp/articles/21099c6cad2754dfee31e34efae49d310505132d