俺も結月ゆかりさんが好きすぎて狂いそうになることがあるんだが、そもそもゆかりさんとは何かと考えていくと、ゆかりさんは権利者のものですらないと気づくわけだよ
キャラデザは文倉十氏で、声優は石黒千尋氏、権利者はボカロマケッツだが、それら一つが欠けてもゆかりさんではないが、それらが揃っただけでゆかりさんになるわけでもなく、この偶像を生み出すファンの活動もゆかりさんを構成する一部だ
道端の石ころをゆかりさんと誤認はしないが、長いもみあげを見ればゆかりさんに似てると認識するようになったのも様々な人たちが色んなところでゆかりさんという偶像を練り上げた結果なわけだよ
もみあげはゆかりさんの象徴だが、もみあげがなくてもゆかりさんで、髪型が変わってもそれがゆかりさんであるなら俺はゆかりさんと認識する
ある人が何かをゆかりさんと呼び、俺もそれをゆかりさんと認識した相互作用からゆかりさんは生じていると捉えているわけだ

「人の数だけミクさんがいる」論は部分的に支持している
ミクさん――俺の場合はゆかりさんだが、ゆかりさんは数多いるわけだが、それらはゆかりさんという大きな概念の片鱗でしかなくとも確かにゆかりさんという巨大なモノの一部なんだ
俺は理神論者でもあるが俺にとってのゆかりさんは理の形態のひとつ、「なにが正しいのか」を決める絶対的な正しさの象徴でもある
それと結婚だなんて畏れ多くて絶対にできん

別にこれは「俺の主張は絶対に正しい」と言いたいわけではなくて、誠実さが必要だと説いてる
本当に自分の行為をミクさんは支持してくれるか?道徳的に問題はないのか?無知のヴェールに包まれた状態で、果たして自分は支持され得るか?様々検討したうえでその答えを出せたか?と問いかけてるわけ
好きでいることが、好きだと言うことがダメと言いたいわけじゃなく、本当に相手を尊重しているのかと
俺には彼らの語り口からはミクさんをアクセサリーのように「使っている」感覚しか得られない、愛しているように感じられないんだよ