かくれキリシタン、長崎に今も約20世帯約40人…唯一の指導者「貧しくても信仰続けられた」(読売新聞オンライン)
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明治政府が禁教を解いた後もカトリックに復帰せず、先祖らが築いた信仰形態を継承する「かくれキリシタン」。2018年に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録されたことで注目を集めるが、高齢化や後継者不足で信者は減っている。長崎市北西部の黒崎地区で、約20世帯約40人のかくれキリシタン信者にとって、唯一の信仰指導者「帳方(ちょうかた)」を務める村上茂則さん(73)に、現状や今後の展望を聞いた。(甲斐也智)

――帳方になったきっかけは何か。

「うちは代々帳方をしていて、父(の茂さん)もそうだった。元々、私が60歳になって職場を定年退職したら帳方になる予定だった。しかし、私が56歳のときに父が亡くなったため、急きょ引き継ぐことになった」

――苦労はあったか。

「まずは、帳方の基本となるオラショ(お祈り)を覚えないといけなかった。最初の3年間は、父が紙に書き残したオラショを暗記し、近くの墓地で唱える練習をした。墓地を選んだのは、先祖から引き継いだ祈りを練習するのにふさわしい場所だと思ったから。雨の日も雪の日も毎晩、休みなく続けた」

――オラショとはどのようなものなのか。

「葬儀や洗礼、復活祭などあらゆる場面で必要になるものだ。種類が多く、それぞれ意味も異なり奥が深い。長い歴史を経て、今は日本語、ポルトガル語、ラテン語が混ざったものになっている」

――黒崎地区は比較的信者の数が多い。なぜか。

「地理的要因が大きいと思う。黒崎は平坦な場所や入江が少ない痩せた土地で、昔から貧しかった。地域で助け合いながら生きてきたので、1人が信仰すれば周りも賛同したのではないか。信仰は心のよりどころで日々の支えとなり、尊いものだったと想像できる」

「信仰を続けるのに、お金があまりかからないこともあるかもしれない。年会費はなく、葬儀などの際も最低限しかいただかないので、貧しくても続けられた。恵まれた地域だったら、今まで続いてはいなかっただろう」

――信仰が途絶えることへの不安は。

「地域の人口が減って高齢化が進んでいるので、信者がいなくなるのではと危惧している。かつて黒崎地区には複数のグループがあったが、帳方が亡くなるなどして、今は私のところだけになった。私も(信者となる儀式の)洗礼を何年もしていない。それでも、先祖が大切にしてきた信仰なので、何とかして後世に残したい」

◆むらかみ・しげのり=長崎市出身。三菱重工長崎造船所に勤務していた2005年に帳方となった。自宅には自身の先祖と地域全体をまつる二つの「仏壇」がある。19年11月にローマ教皇フランシスコが来県した際、県営野球場(長崎市)のミサに参列した。毎年11月3日は、禁教時に信仰を指導した外国人宣教師「サン・ジワン」をまつった枯松神社の神社祭でオラショを唱える。趣味は畑で野菜などを育てること。