関羽を倒したばかりに……人形劇「三国志」で極悪人にされた呉の名将・呂蒙の悲劇とは?

関羽(かんう)討伐で知られる呂蒙(りょもう)は、「三国志」屈指の名将として描かれる。
しかし、NHKで放送された『人形劇 三国志』では、随分と扱いが異なる。それはどういった理由によるのだろうか?

「男子三日」の逸話で知られる呂蒙

「男子三日会わざれば刮目(かつもく)して見よ」という言葉をご存じだろうか。
これは武勇一辺倒で「呉下の阿蒙」(おバカな蒙ちゃん)と呼ばれていた呂蒙が、
猛勉強の末に魯粛(ろしゅく)を言い負かすほどの学識を身につけて言った
「士たるもの別れて三日もすれば、さらに刮目して相待つべし」(士別三日、即更刮目相待/江表伝)がもとになった慣用句だ。

 呂蒙といえば、上記のエピソードばかりが有名だが、実は「虎穴(こけつ)に入らずんば虎児(こじ)を得ず」という故事成語を発した人でもある。
彼は15~16歳のころ、ひそかに義兄の後を付けていって山賊討伐に参加したので母親に叱られた。

「なんて危ないことをするの」という母親に対し「虎の穴に入らなければ、虎の子は捕まえられません。私は戦いで手柄を立てます」と言い放ったのだ。

 それ以来、彼は常に義兄の軍に付き従うが、周りからは「お前みたいなガキに何ができる」などといつも馬鹿にされていた。
ある日、ついにキレた呂蒙は刀でその男を滅多切りにしたという。血の気の多い武闘派だったようだ。

 義兄の主・孫策(そんさく)は「血気に逸って人を殺すのは良くないが、その気迫は捨てがたい」と、呂蒙を側近に取り立てた。
この出会いが、彼を大きく飛躍させ歴史を変えることとなる。
そして前述のとおり文武両道の名将に育った呂蒙は、病死した魯粛の後任として荊州(けいしゅう)の軍司令の座につく。

名将・関羽を討伐した比類なき英傑だった

 219年、関羽が遠征中の江陵(こうりょう)に、音もなく忍び寄ってこれを占拠。
そのために関羽は曹操・孫権両軍に挟み撃ちされる格好となり、退路を断たれて敗死する。
呂蒙こそは曹操軍の徐晃(じょこう)と並ぶ関羽討伐の殊勲者で、主君の孫権も彼を褒め称えること尋常ではなかった。

 だが、荊州制圧と関羽打倒は彼の身体に相当な負荷がかかっていたのかもしれない。同年中に病魔に襲われ42歳にて急逝してしまう。
孫権は彼の病状を、壁に開けた覗き穴から観察するほど心配し、死んだときは深く悲しんだと、正史の『呂蒙伝』に書いてある。

 しかし、後世の蜀漢びいきの風潮を受けた『三国志演義』で、呂蒙の死は大幅に改変される。
関羽が孫権に斬首されたのち、呂蒙は酒宴の席でその霊にとりつかれ、
あろうことか「碧眼(へきがん)の小児、紫髯(しぜん)の鼠輩(そはい)!」と孫権をののしった挙句、身体中から血を流して絶息する。

 その死にざまは、何度も孔明に騙されて矢傷を開いて憤死する周瑜(しゅうゆ)以上といえるかもしれない。
孟達(もうたつ)の矢を頭に受けて死ぬ徐晃の最期は、まだ良い方で「関羽の死」の責任を一身に負わされたような感じだ。
「三国志演義被害者の会」の代表格ともいえる呂蒙は、これに留まらない。さらなる惨い扱いを、あの超有名な作品で受けている。
そう『人形劇 三国志』である。

つづく
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