結局のところ晋王朝が長続きしなかった原因ってなんなの? [213111744]
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司馬懿が頑張ってきたのに
八王の乱さん.. 八王の乱ってこれだっけ?
親戚押さえつけてた王朝の滅亡を反面教師にして親戚に力を持たせても滅びるとか
どうすればよかったんだよ 山上以外の理由を考えるのがプロの分析じゃねえの?
プライド持てよ 親族に力持たせすぎたのもあるが
二代目恵帝が無能過ぎた 私腹と壺を肥やすばかりで民のために何もしてこなかったから 陳舜臣の本を読むと
魏は親族の力を制限し過ぎたので他の氏族に簡単に乗っ取られた
なので晋は地方に親族を王として配置して、他の氏族に
乗っ取られないようにした。でもそれが仇になって八王の乱が発生した 皇帝というのは日本人のイメージするような絶対権力はなく
親戚、地方、宦官の顔色を常に伺い自分だけで決定出来るようなことはないということだよ
これ宮崎市定からな 慢心やろな
近い人はみーんな従ってくれてたんだろう 反対意見を言われ足り負けるのがほんと嫌だったんだろうね
勝てそうなとこに出てきて手柄を取るのが常態化してたんだろう
難しい問題はなーんも手をつけず、できそうなやつだけやってる感で仕事してる感じだった
難しい局面にも立ち向かう覚悟があれば長期政権にはならなかっただろうし、奈良に行かず長野に行ってたと思うわ >>9
中華の歴代王朝は結局これの繰り返しだから正解はない
親族に力を持たせれば乱が起こり、臣下に力を持たせれば軍閥化
どちらも鎮圧したところで王朝が弱る結果になるだけ >>9
宋の皇帝と実務官僚とが直接結び付く関係が1つの答えではあるのでは
宋は内政的には上手くやれてたと思う
外的要因で滅んだけど 恵帝「なに米が無い? 米がなければ肉をたべればいいじゃないか」 王 衍(おう えん、256年 - 311年4月)は、西晋の政治家・武将。従兄に竹林の七賢で有名な王戎。
衍の清談は見事で、えもいわれぬ品の良さや名句を吐いて相手をやりこめて人を皆心服させた。
こうして無為の日々を送りながらも名門の故か、彼は官位をますます昇進させ、周囲の人々はその風雅を慕って門下に集まり、
遂には西晋の政界自体が清談の道場になり立身出世には清談が手立てになるまでの流行をきたした。
311年に石勒が洛陽に侵攻してくると、軍は壊滅・殺戮され、太子司馬?は捕虜にされ、王衍は捕えられて石勒の前に引き出された[6]。
王衍はおろおろしながら「私の仕官は本意ではなく、今回の抗戦も実のところ私の与り知った事ではない」などと述べ立てて命乞いしたため、
石勒はその姿に情けなさと怒りを覚えて「貴方は太尉の要職にあり、天下の名流であろうに、今さら国家の大事に与り知らん身だと言えた義理か。
晋の天下をめちゃくちゃにしたのは貴方の責任だ」と怒鳴りつけ、壁を押し倒してその下敷きにして圧殺した。
これは石勒がこんな腐った人物に刀はもったいないと怒ったためともされる。
昔王衍、今ひろゆき 国防を異民族に頼ったから
その上で内訌に明け暮れて求心力を失い「あれ?こいつらに従わなくても俺らが独立して王朝立てればよくね?」って思わせたこと 曹植の詩に領地コロコロ変えられるわ兄弟と一緒に帰国するのも許されないわで辛すぎるみたいなの残ってるから
魏は親族に厳しかったんだなってのがわかる そもそも当時漢民族・異民族という意識があったかどうか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています