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日本の半導体が衰退した原因は米国の締め付けが原因であり、特に1986年の「日米半導体協定」の影響は甚大だったとの声も大きい。しかし、協定は「5年以内に、日本市場における外国製半導体のシェアを20%以上まで引き上げる」ことを規定したに過ぎない。現在の中国に対する徹底的な輸出規制と比べれば、その威力はタバコの外箱に書かれた「喫煙はあなたの健康を損ないます」という警告文と同じレベルだ。

実際、日本の半導体産業は1990年代は依然として好調な貿易黒字を保っており、衰退し始めたのは2000年代に入ってからのことだ。その原因は米国ではなく、韓国や台湾のチップ産業が台頭してきたことにある。

屋台骨ともいえる産業の衰退は、産業界で繰り返し議論の的になり、常々思い返されてきた。西村吉雄氏は著書「電子立国は、なぜ凋落したか」の中で、日本企業は「製造方法」の研究には長けているが、「何を作るか」の判断がおろそかだったことを指摘している。

西村氏は日本の半導体が1980年代後半に直面した危機を列挙している。中でも重要なのが、「プログラム内蔵方式」の出現により付加価値の源泉がハードウエアからソフトウエアに移ったことだ。インターネットの普及後はますますこの傾向が強まっている。つまりソフトウエアはもはやハードウエアを動かすだけのツールではなくなり、フォトショップやWeChatのようなソフトを開発できれば一気に巨大企業に成長することもできるわけだ。しかし長きにわたって日本人はソフトウエアの持つ付加価値をほとんど意識してこなかった。

「電子立国は、なぜ凋落したか」では日本の半導体産業が衰退した別の理由も示されている。日本半導体の成功は大型の製造設備に支えられたもので、市場は部品から完成品、製造から販売までを自社内で完結させるタテ型の事業形態だった。例えば東芝製の部品を東芝の工場で組み立てて、東芝のOSを搭載し、東芝の販売部門が製品を売り出すという垂直統合の形態だ。

しかしパソコン市場はそうはいかない。サプライチェーンの各部分には川上の部品メーカーから川下の組み立て工場やソフトウエア開発企業など、さまざまな企業が関わっているためだ。ヒューレット・パッカードのパソコンが、インテルやウエスタンデジタルから部品を調達し、組み立てはフォックスコンに委託して、マイクロソフトのOSやAdobeのフォトショップを搭載するという具合だ。

この新たなシステムのもと、付加価値の源泉は製造スキルやコストコントロールから、ソフトウエア開発のアーキテクチャや川下のアプリケーションへと移ってきたが、日本人はこの変化になじめなかった。

1984年、インテルのマイクロプロセッサ8086/8088が出荷台数7500万個という驚異的な数に達し、x86アーキテクチャが確立された。インテルは互換性に重きを置き、どんな開発者でもx86アーキテクチャをベースにしたソフトウエア開発ができるようにした。ソフトウエア開発企業が8086に投じた金額は世界で数十億ドル(数千億円)に上った。

インターネットが普及し始めると個人消費者がIT市場の中心勢力となり、Adobeやグーグル、アマゾン、さらには中国IT御三家「BAT」やポータルサイトなど数多くのソフトウエア企業が誕生した。半導体産業でも新しいビジネス環境が出来上がった。ユーザーがソフトウエアを購入すると、ソフトウエア企業は製品の改良を進める。改良後の製品はシステムリソースが増大するため、チップ企業はチップの性能を高める。ユーザーは最新チップを搭載したハードウエアを購入してソフトウエアを実行する。この一連の流れは「アンディとビルの法則」と呼ばれ、チップの性能向上を促すのは一貫してソフトウエアであることを示している。

残念なことに、経済不況に陥った日本には大手のソフトウエア開発企業もなかった。経済学者の試算によれば、1990年代に米国が情報通信技術(ICT)に投じた金額のGDP比は日本の4倍だったという。しかも日本は英国やドイツ、イタリアよりも低く、G7の中で最下位だった。つまり日本には起業する人も投資する人もいなかったのだ。

西村氏が語ったとおり、日本企業は優れた「ものづくり」の精神にあふれてはいたが、クアルコムやインテルにも、グーグルやアマゾンにもなれなかった。