【悲報】古代朝鮮神話「西暦157年。太陽の精と月の精が岩に乗って東の島に渡り王となりました」あっ.... [237216734]
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阿達羅王四年(西暦157年)、新羅の東海岸に延烏朗・細烏女という夫婦が住んでいた。ある日延烏朗が海岸で海藻を採っていると大きな岩があって延烏朗を日本まで運んでいってしまった。日本の国の人はただの人ではないと言って延烏朗を国王にしてしまった。細烏女が延烏朗を捜しに海岸へ行くとまた岩がありその上に夫の履き物が置いてあった。その岩の上にのると細烏女を日本へつれていった。細烏女は延烏朗に再会し王妃となった。 この時新羅に日月の光が無くなった。日官が国王に「この原因は日月の精が日本に行った為です」と奏上した為、王は二人を捜しにやったが二人は日本へ帰らなかった。その代わり二人の娘の織った生絹を使いに渡し、天に祭るように言った。使者が新羅に帰ってから言葉通り天に祈ると、太陽と月がもとに戻った。この時祈った場所を迎日県又は都祈野という。 http://www.kotenmon.com/ecl/densetsu.htm >>240 漢字混じりハングルを発明したのは日本人。 朝鮮を占領してた時に、韓国の公用語を カタカナにするために、棍棒で殴りながら 教育してたんだけど途中で戦争が始まって そこまでで終わってる。 ジャップ天皇も朝鮮人だし、 短歌詩人の韓国人が「ジャップ短歌の起源は韓国だし、京都文化も百済の貴族が作った」とか言ってたのも本当なんだろうねww 俺たちジャップは全員統一信者になってムジョッコンで朝鮮人様の奴隷にならないといけないよねww 朝鮮占領時は女は13歳になったらレイプ。 壊れるまで朝も昼も穴という穴を犯し続ける。 二十歳になる頃には日本兵の子供を十人は産んでいる。 だから日本人と韓国人はそっくり。 >>243 上田 正昭先生(京都大学名誉教授) 「京都のなかには百済王族の百済王氏・新羅系の秦氏や高句麗系の高麗氏など、朝鮮文化ゆかりの社寺や史跡がかなりあります。 京都の古代史は朝鮮半島ゆかりの氏族を抜きに語ることはできません。」 >>245 でっていう 壺から切り離して考えろよアホ 周辺王家の出自を詳細に記録する中国の歴史書では、倭国の王は一貫して倭人めしくは倭種 朝鮮の歴史書にある倭人の出自に関する記録は、中国の歴史書に倭人は呉の太伯の子孫らしい、と書いてあるだけ 日本の歴史書も、倭国の王が中国や朝鮮出自とは一切書いてない いい加減、ファンタジーは止めろ だが、新羅の歴史書には王の出自が倭人だと書かれちゃってんだよ これだけは諦めて、認めろ 新羅本紀 57年 (4代王の)脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。 (注:前漢・後漢の1里は415.8mなので、一千里は415.8kmとなる。) >>60 同化も何も縄文人そのものなんだよなぁ 大和民族は韓国人と同じ人種だけど >>233 結構似てるぞ。勿論漢字語ではなく固有語 古代においてはイントネーションはもっと似ていたという 異世界というか新天地で現地土人相手に無双して出世できるってのは日本人のルーツなんやね アイヌはロシア経由ってことにして そのルートに朝鮮族を乗っけようとしてるから キモい感じになる。 学名はアボリジナルジャパニーズ。 ニュージーランド原住民の親戚。 倭は元々長江付近の百越族の一つを指していた 時代が下るに従って倭という名の民族の位置が北上し朝鮮半島付近に至り最終的に日本列島の民族を指すようになる これは稲作が南方が伝わったという説と朝鮮半島から伝わったという説を矛盾なく整合する点でも興味深い >>254 大陸を圧倒した島国は日本だけじゃないか 400年かけて、とうとう朝鮮は屈服した 新羅本紀 346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。新羅王は自ら戦おうとしたが臣下に止められ、新羅軍は門を閉じ城から出なかった。 食料が尽きた倭軍は撤退した。新羅軍は追撃の兵をだした。 364年 倭兵が大挙して侵入してきた。倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。 さらに追撃し全滅近くまで追い込んだ。 393年 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。倭軍が撤退を始めると、新羅軍は騎兵二百と歩兵一千で追撃し、倭軍は大敗した。 402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。 好太王碑 391年(辛卯(耒卯)年)「百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡■破百残■■新羅以為臣民」 そもそも新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。 399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌にでむいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。 14年の攻撃は、事実上初めての大規模攻撃と言えるが、その約400年後、とうとう朝鮮人は完全に屈服した 14年 倭人が兵船百余隻で海辺の民戸に侵入したが、六部勁兵(強兵6部隊)を派遣してこれを防いだ。 402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。 >>256 一流考古学者「倭人はワイ人です」 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1578121854/ 音韻学 From the phonetic material in the ancient literatures, the words, Wa and Wai, both do not have the initial of the syllable(影母). The final of the syllable of Wa is pronounced as [iuai] ( the final of the syllable of Wa belongs to the Ge(歌部) in the ancient Chinese phonetics) , and is pronounced as ヮ(Wa) in the Chinese characters in the Japanese. The final of the syllable of Wai is pronounced as [iuat] ( the final of the syllable of Wai belongs to the Yue(月部) in the ancient Chinese phonetics), and is pronounced as ヮィ(Wai) in the Chinese characters in the Japanese. Thus, in the ancient phonology, the initials of the syllable of Wa and Wai are same, and their finals of the syllable can be changed to each other. 关于古代日本的倭人,中国学者研究的并不多。一些研究者往往只是根据古 代文献中的只言片语或零星的考古资料,就把倭人及其文化的来源简单的与中国 大陆联系起来。日本学者对这方面的研究非常重视,但也往往由于民族情感的限 制,不能客观地进行讨论。所以,至今为止,倭人及其文化的来源,仍然是一个 尚未解决的课题。1996 年至1999 年,笔者对东北亚地区青铜时代的考古学文化 进行了初步的系统研究,并在日本出版《东北亚的青铜文化》一书1。在以往研 究的基础上,笔者拟以考古资料为基础,加之以对不同时期文献的考证,分别对 濊人与貊人、濊人与倭人等古代东北亚地区的人类集团及其源流关系进行系统研 究。 《山海经・海内北经》、《后汉书・鲜卑传》、《论衡》等古代文献中,都有关 于古代倭或倭人的记载,不少学者的研究都将其与日本列岛的古代倭人直接联系 起来。但从这些文献中所记载的倭的情况来看,他们并不是生活在日本列岛的倭 人,而应该是生活在辽东、吉长、长白山周围地区和朝鲜半岛的古代濊人。 訳 ワイ【さんずいに歳】人と倭人 西北大学考古学部 王建新 中国の学者は古代日本の倭人についてあまり研究していません。 一部の研究者は、古代文書の単なるフレーズや散らばった考古学的資料に基づいて、 倭の人々とその文化的起源を中国本土と単純に関連付けることがよくあります。 日本の学者はこの分野の研究を非常に重視していますが、国民感情よって制限されるため客観的に議論することはできません。 これまでのところ、それら古代の人々(倭人など)と彼らの文化の起源は未解決の問題です。 1996年から1999年にかけて、著者は北東アジアの青銅器時代の考古学的文化に関する予備的な体系的研究を実施し、 日本で「北東アジアの青銅文化」という本を出版しました[1]。 著者は、以前の研究を基礎に考古学的資料に基づいて仮説をたて、さらに、異なる時代の文献に関する研究を加え、 それぞれ、ワイ人と貊人、ワイ人と倭人などの古代北東アジアの人類集団とその関係を体系的に分析しました。 「山海經・海内北經」、「後漢書・鮮卑伝」、「論衡」などの古代文献には、古代倭または倭人に関する記録があり、 多くの学者がそれらを日本列島の古代倭人として直接関連づけて研究しています。 しかし、これらの文書に記録されている倭の状況から判断すると、彼らは日本列島に住んでいる倭人ではなく、 遼東、吉昌、長白山周辺地区及び朝鮮半島北部に住んでいた古代ワイ【さんずいに歳】人です。 ワッチョイ 03af-jfY0 テテンテンテン MMb6-y47Y 嫌儲のデマ製造機ね 書き込みに特徴があるから憶えておいてね 朝鮮半島から渡ってきた渡来人が当時の日本人(倭人)より進んだ文明と知識と技術を持っていた と聞いてお隣の人がホルホルしそうな話だけれども よくよく聞いてみると当時朝鮮半島に移住してきた中東あたりをルーツとする中国に移住してた一族か集団が 朝鮮半島にも来ていてそれが日本にも来たて話らしいね だからお隣の国の人がホルホルする要素が見当たらないw そんな裏付けが取れない話は良い 最近、武寧王陵近くの墓で、このレンガは南京人が作ったと刻まれたレンガが発見された 武寧王陵は、まんま中国南朝様式の墓と知られるが このレンガの発見で、百済王家の墓は中国人が作ったと裏付けられた つまり古代、朝鮮人は何ら技術は持たず、持っていたのは中国人だったんだよ >>10 桓武天皇の母親が百済の王族出身ってだけだよね >>259 渡来してきた倭人(いわゆる弥生人)は江蘇省の呉人とDNAも一致してる いくつもの記録に出て来る「自ら(呉の)太伯の後裔と云う」などの記述とも合致する もうほぼ答えは出てる。倭人のルーツは長江。少しずつ北上して日本列島に渡ったということ >>13 日本人と朝鮮人は母方の遺伝子はほぼ同じだけど父方の遺伝子は全然違うらしいよ 元は同じ民族だったかもしれないが侵略されて男を皆殺しにされたのが朝鮮人だろう、日本人は島国だから難を逃れた。 >>263 段階飛ばして結論書いてるやつは裏付けないのとかわらなくね 1970年代に作られた朝鮮古代神話。 韓国の偽史運動ほど間抜けなファンタジーもない >>35 デタラメ言うなよ!モンゴル人に男を皆殺しにされてレイプされまくった結果が現在の朝鮮人だよ >>267 何回も説明しているだろう 朝鮮人の連れ去りは、女をさらうのが目的で 縄文人がファックした その裏付けが、鳥取の青谷上寺地遺跡の調査で判明した 結果は、男系縄文、女系弥生 新羅本紀 287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。 鳥取)縄文人系のDNA配列を確認 青谷で出土の人骨 https://www.asahi.com/sp/articles/ASM3233PCM32PUUB001.html 百済と新羅は日本のパシリでした。 魏志倭人伝には、狗邪韓国(加羅)を倭国の北限とする記事があり、 考古学的にも当地の3世紀の遺跡には、倭系遺物の出土が多い。 好太王碑文に倭国が海を渡って、百済・新羅を臣民にしたとの記述 が見られる時期に、 朝鮮の正史「三国史記」に、百済が皇太子を、 新羅が王子を、倭国に人質に出した記事がある。 「日本書紀」も同様で、400年前後に倭国が朝鮮半島南部に勢力を 広げたことで一致。 宋書には、5世紀後半に、倭国に新羅・任那 などの軍事権を認めた叙任がある。 これらの文献資料は、全て調和的。 考古学的には、畿内発祥の埴輪を並べた前方後円墳が、古墳時代 中期~後期(5~6世紀) になると、朝鮮半島南部にいくつも 見られるようになり、倭国の勢力拡大を裏付けている。 と言うわけで、全く問題ないのである。 >>55 朝鮮人が太平洋戦争の時に徴兵された期間は日本人と比べて短いし徴兵開始も随分と遅かったろ日本人男性が戦場で戦っていた時、朝鮮人は徴用労働された、けっして朝鮮人を矢面に立たせて戦わせたわけではない > 渡来してきた倭人(いわゆる弥生人)は江蘇省の呉人とDNAも一致してる > いくつもの記録に出て来る「自ら(呉の)太伯の後裔と云う」などの記述とも合致する > もうほぼ答えは出てる。倭人のルーツは長江。少しずつ北上して日本列島に渡ったということ キチガイを一応論破しておく 呉の文物を一切携えずに渡来してきるのか?www その時代、日本に呉の文化、建築技術、農業などは一切伝播してない はい、論破w >>274 洗脳途中の戦闘の激化でそうなっただけの話。 このときの朝鮮総督府の嘘800が >>1 みたいな神道ベースの一神教カルトを生んだ。 ネトウヨがよくDNAがーと言ってるが 日本の土は酸性で骨のからサンプルのリボ核酸をとるのはほとんど奇跡にちかい 貝塚なんかのアルカリ性で中和されているような場所にでも埋葬されていない限りw だから比較的壊れにくいミトコンドリアDNAくらいしか拾えないw >>113 縄文時代は栗を集落の周りに植林して重要な食料源だったってNHKの歴史番組で観たよ >>207 日本陸軍に三等兵とか四等兵なんていなかったろ、朝鮮人は息をする様に嘘をつくって本当だな >>280 青谷上寺地遺跡から、弥生人の脳みそが出土した そいつの遺伝子を検査したら、結果は男系縄文、女系弥生 諦めろ 発掘された人骨のうち、3個体の頭蓋骨に当時の人の脳が残されていることがわかり(弥生人の脳は国内で初めての発見)、採取したDNAを元に弥生人の顔を国立科学博物館などの研究グループが復元(復顔像を制作したのは、このうちの1個体で、大人の男性)。 ミトコンドリアDNAの分析により、弥生人の父親は以前から日本列島にいた縄文系、母親は大陸からの渡来系だとみられ、本人はやせ型で髪の毛が太いことが判明しています。 女だけがディスカバリーに来ることはないから 縄文の連中が半島まででかけて拐ってきたと。 原点が11世紀までしか遡れない上に日本書紀から思いっきりパクってる朝鮮神話が何だって? 縄文人でも、海沿い住んでいた奴らは、普通に舟を操り、その骨は江戸期の日本人の骨より太かった https://www.asahi.com/sp/articles/photo/AS20180827004289.html 保美貝塚は縄文後晩期の時代なんだが 縄文人でも、海沿いに住んでいた縄文人の末裔が、弥生期に舟を操り朝鮮半島で暴れまくったわけだな 暴れまくるには、女の連れ去りもあり、その連れ去りが縄文系と弥生系の交配を促した >>289 船自体は縄文人のお父さんの台湾原住民に教わったもの。 このお父さんは土器の表面に竹べらで幾何学模様を書くのが得意なんだけど 不器用な縄文人は真似できずに縄の模様を押し付けた。 https://live.staticflickr.com/4088/4848262646_2afba2cd88_b.jpg >>210 > 渡来人が来る前から縄文人は酪農をやってるぞ。 なんかすげぇのがいるなw 縄文人が酪農? 完全にあたまがおかしい >>291 醍醐味の語源を調べてみ? 蘇というチーズを税金代わりに物納できた時代もあった。 渡来人がここらの文化を破壊。 一般社団法人 日本乳容器・機器協会 > 日本における家畜牛の誕生 > 古代日本の牛乳利用を語るには、まず古代日本の牛について説明する > 必要がある。考古学的には日本における牛の存在は数万年前の旧石器時代まで > 遡ることが出来る。岩手県一関市の金流川(きんりゅうがわ)流域で発見された > 出土品の中に多量の牛骨化石が含まれており、これらは野牛や原牛の骨であると > されている。しかし、これらの化石牛は日本列島が南北で大陸と陸続きであった > 洪積世末期に相当することから古代日本で役用や食用に供された家畜牛とは > 同一の種類は考えられていない。 > 日本における家畜牛の誕生は、縄文中期以降の遺跡から発見される骨こそが > 家畜牛のものであると推定されており、今日における和牛の祖牛と云われている。 > しかし、縄文中期以降に飼育されていた和牛はもっぱら労役用、肉用であり、 > 乳そのものを飲用に供することはなかったようである。 https://www.namp.or.jp/column19.html >>293 聖徳太子の時代にはもう醍醐は 言葉では表現しようのないとてつもなく美味かったものってことになってる。 この時点でもう製法が失われてる。 このIDの人のレスは>>121 >>1 の話のふりにあっていてすっごく面白い >>294 > 乳そのものを飲用に供することはなかったようである。 ばーか まじかよ、おれ韓国人だったのかよ でも身体的特徴が日本人と韓国人って結構違わないか? 韓国人のが明らかに身体が大きい 2000年で差がついた? そしてそもそも上の方で渡来人が来るまで牛馬が日本にいなかったって 文献をドヤ顔で貼ってるやつがいたけど縄文時代から黒毛和牛がいるよね。 >>299 縄文時代に酪農があったなんて 妄想しているおまえが そんな奴のことばかにしても バカがバカを笑っているだけだろw ばーか 古代の船は遠洋の高波越えられなくて日本からの朝貢も中国からの使者も朝鮮半島経由してたからな 弥生人は普通に考えて朝鮮人なんだよな 中国人の集団が朝鮮経由して日本に渡ったとしても案内人や朝鮮半島からの物資の輸送で朝鮮人が多く混じってただろうし ちなみに醍醐といえば天皇の名前になるくらい重要な食物。 文字を持たない縄文人の産物だからどこにもレシピが残ってない。 渡来人が持ってきたもんなら母国に記録が残るでしょ。 そういったもんが一切ない。 醍醐の前段階の蘇に関しては製法を体系化して西暦1000年頃までは作られていたそうな。 醍醐天皇 885~ 後醍醐天皇 1288~ どっちも謎の食い物の名前。 この天皇の名前のルーツが朝鮮にあれば兄さん確定なんだが そんなものは存在しない。 モンゴルにそれっぽいものがあるという話も。 >>301 逆 新羅本紀 14年 倭人が兵船百余隻で海辺の民戸に侵入したが、六部勁兵(強兵6部隊)を派遣してこれを防いだ。 兵船百余隻 新羅本紀 295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。 これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。 いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。 大陸、半島らしく、伝統的海に苦手意識ある >>306 その倭人が加羅の倭人たちであった可能性はどこに消えたんですか? 倭人は簡単に1000人の捕虜を移送していたが 一方、いい加減怒った新羅が、海を渡って攻め込むと考えだが、海は苦手だから止めて置こうだ ココで重要なのが、恐らく新羅は、295年時点で、今まで一度も、海を渡って日本列島に攻め込んだ事が無いと言う事だ 新羅本紀 287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。 新羅本紀 295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。 これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。 いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。 弥生人が朝鮮人じゃないの根拠は朝鮮より日本の方が水田稲作が早かったってだけだからな 米は熱帯原産だから朝鮮半島より南で暖かい九州で先に根付くのは当たり前のことなのに 朝鮮に水田稲作が伝来しても寒くて育たなかっただけ 古い水田跡が見つからないからって伝来しなかったわけじゃない 米は品種改良されて寒さに強くなって水田は北上していった 12世紀だか13世紀だかに書かれた信憑性が無い本に書かれていた記述だからな いやー古代朝鮮と古代日本の関係性って、浪漫がありますねぇ(ここでネトウヨ激怒) 対馬から対馬海峡越しに望んだ「釜山花火祭り」。 手前は対馬最北端の海栗島にある航空自衛隊のレーダー基地 https://i.imgur.com/lJGfbFU.jpg 朝鮮半島決め打ちで航海して少しでも海流に流されたら死亡確定なのよ。 その時点で再上陸可能地点は蝦夷地しか無いわけだから。 蝦夷とヤマトは700年にも及ぶ死闘の最中。 そして航海の目的地は山東半島の上の長安なんだから 最初から船で山東半島を目指すのが一番コスパが高い。 >>310 その手の話で必ず問題になるのが 朝鮮半島の倭人 任那の名は日本書紀にも多く出現するぐらいで 任那日本府として半島南部を支配していたとの意で間違いなく記述されている 任那加羅の名も中国と半島の文献に出で来る そこから抑えないとそういうのはいくらレスしても何の意味もないよ 元々中国憎しで編纂したところあるから設定に穴が多いんですよね 俺たちは独自文化を持ってるんだぞー漢字でも書くから読めよーってなもんだ >>311 朝鮮人の定義にもよるし 古墳人を弥生人に含めるかどうかにもよる し >>240 韓国発の日本オーディション番組で受かった子たちがカジョクのお陰連呼してたけど どっかの訛りかと思ってたわ >>10 別にネトウヨじゃないけど稲作を伝えたのが朝鮮人というのは何重にも否定されてるし 朝鮮半島経由、黄海朝鮮半島経由説自体が無理があるというのがコンセンサスになりつつある >>317 百済と共に海を渡ってと言ってんだが 新羅本紀 295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた やっぱ>>3 この ニギハヤヒの話は最高に面白いね なんつったって神武より先に大和にいたって 記紀に書いてんだしw 日本の古代史論争って稲作が物凄い足を引っ張っていて他の文化は伝わっていても 北陸だろうが当時のゴミ稲で農業してるかどうかってだけで縄文扱いしてんの その結果がどの国も加工してすら買ってくれないジャポニカ米の在庫山積みなんだからもう笑えもしない >>329 その解釈だと渡来人は稲作を持ち込んでないことになるね。 >>326 古代沿岸航法における「海を渡る」って意味を 君は 「百済が対馬を経由して北部九州に行って倭を討ちたい」としたと捉えたわけね しかし百済から新羅ってのは こうなの https://i.imgur.com/Zc23heY.jpg わかった? >>121 逆に言うと、これに征服されるって弱すぎだろ 古墳時代の兵でもこれよりまともな服装だと思うが >>331 素直に読み取れよ 加羅か伽耶か任那か知らんが、陸地で接した隣国 記事から、陸地でも攻め込む事が出来る隣国を攻撃するニュアンスに読み取れんだろう 新羅本紀 295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。 これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。 いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。 冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。 陸地で接した隣国を攻撃するのが、何で冒険的な遠征なんだよ >>245 それってベトナム戦争後のボートピープル(難民)と同じじゃん ニギハヤヒ=大物主の家系は 長江流域がルーツの一族だろう 香取海に新しい長江文明を作ろうとしてた形跡が垣間見える https://i.imgur.com/T9SjtWH.jpg わかんなかったみたいなんで もっと古代沿岸航法をわかりやすく https://i.imgur.com/WXQEWVr.jpg 対馬が倭国への入り口 そこを目視できるのは今の釜山港で ここらへんは百済の領地ではないのは確定している 加羅もしくは任那が対馬への沿岸航法の入り口となる 海路を支配していたと考えるのが 極めて自然なんだ だからこのあたりの航路は極めて重要で 好太王碑を読み解くときも 必ず任那加羅を倭人の国として捉えるか また倭国として捉えるかで大きく変わってくるのは当たり前の話 出で来る倭を全て北部九州と捉えていたら おかしなことがいくつも出てくる >>312 中国南朝の記紀、古事記や日本書紀からの借用もしてるんだろうな >>333 こうね>>336 君無理 基本が全くできてない 君の意見には何の価値もない >>338 お前が言っている事はこうも間抜けだ 新羅を関東、百済を関西、任那が愛知とする 私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、 関東は関西と共に謀って、海を渡り、愛知を討ちたい われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。 関東は海戦に不慣れである、冒険的な遠征をすれば不測の危険がある 王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。 それもそうだ、じゃねーよ 東海道で攻め込めよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる