死亡した男子生徒の一家は事件の約15年前に新庄市に転入し、地元で幼稚園を経営する仲睦まじく裕福な一家であった。一家全員が標準語を話すことも重なり、閉鎖的な地域性からこの一家に対しての劣等感や妬みで、「よそ者」扱いにするいわゆる村八分的な環境にあったとするTV、新聞等の報道がなされた[12]。事件後も、「いろいろなつながりがあるせまい町に住む人たちにとって、表に出たら事件のことを一言も口にしないこと」が続き、当事件の関連記事連載中、朝日新聞山形支局の記者たちは取材現場で「『まだ取材しているのか』『そっとしておいてくれ』となんども追い返されて、さらに学校の関係者を名のる複数の人物から『いまさら騒ぎたてるな』と抗議をうけたことを明らかにしている[13] 。

Aの一家への誹謗中傷も行われ、家の塀に「殺してやる」と落書きされる、「あそこの育て方なら当然」「ケンカ両成敗、いじめられるには、それなりの理由がある」と言われるなどし、兄も通学中に「おまえ、弟が殺されてよく平気で外を歩けるな」と言われる、妹も数人に取り囲まれ「兄ちゃん、殺されてうれしいか」と言われている[4]。


山形怖え