https://news.yahoo.co.jp/articles/d15e3a28e8a32edca6cfd51d13539f22f90f8688

1980年代は、アメリカの半導体部門全体にとって地獄のような10年間だった。
シリコンバレーはすっかり世界のテクノロジー業界の雄のような気分でいたが、20年間にわたる急成長は止まり、
今では存亡の危機と向き合っていた。日本との熾烈な競争である。

 1980年3月25日、ワシントンの由緒あるメイフラワー・ホテルで開かれた業界会議で、アンダーソンが舞台に上がると、
聴衆は固唾をのんで彼の話に耳を傾けた。全員が彼に自社の半導体を売りつけようと考えていたからだ。

 彼の勤めるHPは、スタンフォード大学の卒業生のデビッド・パッカードとウィリアム・ヒューレットが
パロアルトのガレージで電子機器をいじり始めた1930年代に、シリコンバレーの新興企業という概念を発明した会社として知られる。
その会社が今では、アメリカ最大のテクノロジー企業のひとつ、そしてアメリカ最大の半導体の買い手のひとつになっていた。

 チップに関するアンダーソンの購入判断は、ひとつの半導体メーカーの社運を左右するほどの影響力を持っていたが、
シリコンバレーのセールスマンたちは、彼との接待を禁じられていた。
「昼食の誘いに応じることはたまにあったがね」と彼は恐縮した様子で認めた。

 しかし、彼こそがほとんどの人にとっての最重要顧客であるHPの門番であることは、シリコンバレーでは周知の事実だった。
彼はその仕事を通じて、各企業の業績も含めた半導体業界の全景を見渡すことができる立場にいた。

 今や、インテルやテキサス・インスツルメンツなどのアメリカ企業に加えて、東芝やNECといった日本企業までもがDRAMチップをつくっていたが、
日本企業のことを深刻にとらえる者はシリコンバレーにほとんどいなかった。
アメリカの半導体メーカーを経営するのは、ハイテクを発明した張本人たちだった。

 彼らは冗談で、日本のことを「カシャ、カシャ」の国、と呼んだ[2]。
日本の技術者たちが、アイデアを“丸写し”するために半導体会議へと持ち込むカメラのシャッター音になぞらえた表現だ。

 アメリカの大手半導体メーカーが日本のライバル企業との知的財産訴訟をいくつも抱えているという事実は、
シリコンバレーのほうがまだかなり先を走っている証拠としてとらえられた。

 しかし、HPのアンダーソンは、東芝やNECを深刻にとらえていただけではなかった。
日本製のチップをテストした結果、アメリカの競合企業よりはるかに高品質だという事実に気づいてしまったのである。

 彼の報告によれば、3社の日本企業のうち、最初の1000時間の使用で故障率が0.02%を上回った企業はひとつもなかった。
対して、3社のアメリカ企業の故障率は最低でも0.09%。つまり、アメリカ製のチップのほうが4.5倍も故障が多い、ということになる。

 最下位のアメリカ企業は、故障率が0.26%にもおよんだ。これは日本の平均の10倍以上悪い数字だ[3]。
性能は同じ。価格も同じ。でも故障ははるかに多い。いったい誰がそんなものを買うというのか?

 高品質で超効率的な日本の競合企業からプレッシャーを受けていたアメリカの産業は、半導体産業だけではなかった。
終戦直後は、「メイド・イン・ジャパン」といえば「安物(チープ)」と同義語だった。

 しかし、この安物という評判をはねのけ、アメリカ企業と同じくらい高品質な製品というイメージに置き換えたのが、ソニーの盛田昭夫のような起業家たちだ。
彼のトランジスタ・ラジオはアメリカの経済的な卓越性にとって初めて重大な脅威となり、
その成功から自信を得た盛田や日本の同志たちは、目標をいっそう高く定めた。

 こうして、自動車から製鉄まで、アメリカの産業は日本との激しい競争にさらされることになる。