川上 貫一(かわかみ かんいち、1888年〈明治21年〉1月28日 - 1968年〈昭和43年〉9月12日)は、大正・昭和の労働運動活動家・政治家。後に日本共産党国会議員団長となる。

1949年(昭和24年)、第24回衆議院議員総選挙で大阪府第2区に日本共産党から立候補して衆議院議員に初当選する。
ところが、1951年(昭和26年)1月27日に衆議院の代表質問を行い[1]、当時行われていた朝鮮戦争(結果的にはGHQ)や吉田茂内閣の単独講和論を非難した際、革命を賞賛して議会政治を否認するとも受け取られる発言が含まれていたとされ、同年3月26日に懲罰委員会にかけられて本会議での陳謝を命じられたが、川上は用意された陳謝文の朗読を拒否したため、3月29日に衆議院本会議で賛成239、反対71となり除名処分となった[2]。同年9月に占領政策に反したとして逮捕・起訴され、公職追放(レッドパージ)された。

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