山崎兵八
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山崎 兵八(やまざき ひょうはち[注釈 1]、1914年 - 2001年8月19日)は、日本の警察官、内部告発者。
静岡県警察部から国家地方警察静岡県本部に属した。最終階級は巡査。
二俣事件の捜査を担当し、取調べ刑事の拷問による尋問、自白の強要を新聞で告発した人物として知られる。

経歴
■前史

静岡県周智郡熊切村(現・浜松市天竜区)出身[1]。終戦前に巡査を拝命し、1948年(昭和23年)頃に二俣警察署へ赴任した[2]。
長女によると、警察官時代には焼け野原になった浜松から宿無しの戦災孤児を何人も連れ帰ってきては家族の食料を削って何年も育て、製材所など山仕事を世話してあげる人物であったと回顧している[3]。

■二俣事件の捜査

1950年1月6日に発生した二俣事件では、国家地方警察静岡県本部二俣警察署の刑事として捜査に当たっていた。
事件から40日が経過し未だ犯人を特定できない中、山崎が担当したある少年のアリバイが無かったことから捜査の目が少年に向けられた[4]。
しかし、改めて山崎は少年のアリバイを調べたところ、その少年にはアリバイが存在したため、少年にアリバイがあったことを山崎は捜査主任をしていた紅林麻雄警部補へ報告した[4]。

しかし、捜査会議で紅林は「永年の第六感では犯人に間違いない」と宣言し、少年を別件逮捕する[4]。
逮捕された少年は、警察署裏にある土蔵で連日拷問を受け、自白を強要された。当時はまだ食糧難が続いており、酒が満足に手に入る状況ではなかったが捜査本部には「陣中見舞い」として酒が多数差し入れられていた。
事件の担当判事が酒を目当てによく警察署に来ており、その判事と刑事たちの会話の中で少年に死刑判決が出る見込みであると聞き、山崎は自身の示唆によって無罪の少年が苦しむことになったのを後悔し、少年を救うために拷問捜査の告発を決意する。

■拷問捜査の告発

山崎は事件を追及していた読売新聞東京本社と少年の担当弁護士に手紙を送り、少年の冤罪を告発した。
告発内容は判決公判の前日に読売新聞に掲載され、拷問によって強要された自白である点、現場に残された靴跡のサイズと少年のサイズが一致しないことを現役の刑事が証言したため大きな反響を呼んだ[5]。
この記事により公判が延期となり、警察内部でも波乱が起こった。告発後、署長は山崎へ辞職願を出すように強要したが、山崎が拒んだため出勤停止処分に処した。
山崎は公判内でも弁護側の証人に立ち、警察の拷問捜査の実態を証言した。
それに対して、署長は山崎は事件当日に現場に行っていない、性格も変質的であり、捜査から外したと山崎を不当に貶める証言を行った。

■偽証罪での逮捕、精神鑑定

同年12月27日に少年の判決審が静岡地裁浜松支部で開かれ、静岡地裁は少年に死刑判決を下した[6]。
そして同日に山崎は偽証罪で逮捕され、さらに精神異常の疑いありとされて、名古屋拘置所で名古屋大学医学部の乾憲男教授の精神鑑定を受ける[6] 。
60日間にも及ぶ精神鑑定の結果、山崎は「妄想性痴呆症」と診断され、偽証罪は不起訴となり釈放された[7][注釈 2]。
その後、署では辞職願を書かされ7年間務めた警察を退職させられた上、公安委員会より精神異常を理由に自動車免許を取り消された。

■二俣事件無罪判決後

1957年12月26日に少年の第二審が東京高裁で開かれ、少年は逆転無罪となった。
判決後釈放された少年が山崎の家に挨拶に訪れた際、山崎は涙を流して少年を抱擁したとされている[5]。
その後も少年と山崎は季節の便りを交わすなど交友が続いた[1]。
その後、1959年に清瀬一郎監修の下書いた書籍によって、紅林が真犯人と思われる人物からの収賄の疑惑があったことを暴露している。

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