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■警察官失職後

警察官失職後は、運転免許も取り消されたため新聞配達や牛乳配達で生計を立てた[7][注釈 3]。
五人の子どもを抱えながらの生活は困窮し、長女は高校進学を諦め二俣町から離れた場所で就職しなければならなかった[5]。

村八分や親族からは縁を切ると言われ、事件から10年後の1961年には不審火によって自宅が全焼する被害を受ける[9]。
火事の直前に当時小学3年生の次男が長靴をはいた男が家に入っていったのを目撃し警察に証言したところ、逆に次男が火をつけたものと見られ補導されそうになった[9]。
結局不審者に対する捜査は一切行われることなくコタツの不始末による失火と結論付けられたが、この火事によって山崎が集めていた事件資料の多くが失われた[9]。

1970年にはトヨタ自動車へ就職した長男に呼ばれ愛知県豊田市に移住し、知人の紹介によりゴルフ場の雑役夫として働き、後に資格を取得しボイラー技士として勤務した[1]。
山崎は精神鑑定の再検査や故郷へ帰ることを希望していたが実現することなく2001年8月に息を引き取った[5]。享年87。

■著書
・ (共著:清瀬一郎) 『拷問捜査―幸浦・二俣の怪事件』日本評論新社、1959年。ASIN B000JAROGE。
・『現場刑事の告発 二俣事件の真相』ふくろう書房、1997年。(自費出版)
■参考文献
・管賀江留郎 『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』洋泉社、2016年5月。ISBN 9784800307453。 NCID BB21375104。
・前坂俊之 『冤罪と誤判』田畑書店、1982年5月。 NCID BN0341944X。