プロ野球のレジェンドに、現役時代やその後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第16回は打率3割、300本塁打、1000打点を達成した和田一浩さん。長いプロ野球の歴史で7人だけ(4千打数以上)という卓越した成績にもかかわらず、和田さん自身は「足りなかった」と感じていることがあるそうだ。一体何が足りなかったのだろか?(共同通信=栗林英一郎)

 ▽社会人野球時代にバットを振れる力が付いた

 僕が東北福祉大に入れたのは伊藤義博監督(当時、故人)のおかげ。受験に失敗して行くところがない時に「うちに来い」と拾ってもらえた。大学野球をやる道を切り開いてくれた方。それまで接点はない。全国の選手をよく見ておられ、スカウト活動もすごくて情報網に名前があったのではないか。僕は大学野球のことをあまり知らず、福祉大がすごいチームだというのも知らなかった。
 正捕手だった二つ上の先輩が肩を壊し、僕がチャンスをもらって2年生から試合に出られた。伊藤監督からは、とにかく打たれたら全部キャッチャーのせいだと、それくらい厳しいポジションだと教えてもらった。全国大会にも出場できたが、大学時代に実績を残せたとは思わない。全国大会でがんがん打ったかといったら、言うほど打てなかったから。
 大学では木製バットに戸惑った。打球の飛び方だったりバットの振り方だったり、そういった壁に当たった。大学4年間で確かに高校よりは成長したのだろうけど、理論的なことをしっかりやってきていなかったので、我流の部分が抜けなかった。自分の殻を破るまでには至らなかったなと、すごく感じる。

上級生になってプロを意識したが、どこをアピールしたいかというのはなかった。自分の現在地が全国でどんなレベルなのか、他の選手がどんなレベルなのかも分かっていなかった。ドラフト候補として新聞に名前は載る程度で、評価はそこまで高くはなかった。社会人野球の神戸製鋼に進んだのは伊藤監督の意向というのもあったと思う。
 神戸製鋼での2年間は、とにかくウエートトレーニングをむちゃくちゃやった。バットを振れる力がすごく付いたのが社会人時代。(当時は)金属バットだったというのが大きい。大学で木のバットに苦労した分、金属になって僕の場合は解放されたみたいな部分もあった。プロで再び木製になったが、あまり苦労はしなかった。しっかり振れるようになった感覚でプロに入れたので。そこは社会人で鍛えられたからだろう。

 ▽あと10年長く現役を続けてもゴールにはたどり着けなかった

 プロで1年目から活躍したい気持ちはありましたけど、力がなかった。1997年に西武に入った時の、ぴりぴり感、緊張感はすごかった。(松井稼頭央、鈴木健、伊東勤ら)メンバーにも圧倒されました。結果を残すしかない状況だったが、技術力が足りなかったですね。実際にレギュラーを取るまで5年くらいかかっている。
 2000年の秋に初めて金森栄治さんに会った。教わったことはいっぱいあり、どれか一つっていうのは難しい。技術的な詳しい内容より、一つのことをやり続けたというのは覚えている。全部、常に体に近いポイントで打つということ。いろんなポイントで打てるようになるために、一番苦しいところで打っておいて、そこから楽にしていくみたいな。一番難しいことを、とにかくやり続けた。01年にホームランを16本打てて、ちょっと自信が出た。02年に伊原春樹監督に代わって外野専任を言われ、結果的に外野手一本でいったのがターニングポイントにはなったが、その前段階というか「助走」はある。いきなりポンと良くなったわけじゃない。
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