当然のこととしてジェムとマグネット(イギリスの少年週刊誌)の政治的傾向は保守であるが、それは一九一四年以前のそれでファシスト的色合いはまったく無い。
実際のところ、その基本にある政治的前提は二つだ。
何事も変化しないこと、そして外国人は滑稽であるということだ。

一九三九年のジェムではいまだにフランス人はステレオタイプなフランス人フロッギーとして、イタリア人はステレオタイプなイタリア人ダゴなのだ。
グレイフライアーズのフランス語教師であるムスーは普通は先を尖らせたあごひげで先細りのズボンを履いたカエルのような挿絵で描かれているといった具合だ。
インド人の少年であるインキーは太守なのでスノッブな外見をしてはいるが、それでもパンチの伝統に倣った滑稽なステレオタイプのインド人バブーだ(「口げんかはまっとうなお遊びじゃないね、我が尊敬すべきボブ君」インキーは言う。「犬には吼えさせたり噛みつかせたりして喜ばせとけばいい。だけど正しい答えはこうだ。ひびの入った水差しはやぶの中の一羽の鳥に勝る。イギリスのことわざでも言うだろう」)。
フィッシャー・T・フィッシュはアングロ・アメリカンの妬みの時代から取り出したような時代遅れのステレオタイプのアメリカ人ヤンキーだし、中国人の少年であるワン・ラン(彼は最近はめったに姿を見せない。マグネットの読者の一部が海峡華人なのが原因であることは疑う余地がない)は十九世紀のパントマイムで演じられる中国人そのもので、皿のような形の帽子をかぶった弁髪姿でピジン英語をしゃべる。

外国人は私たちが笑うために配置された道化であるというだけでなく、彼らは昆虫とまったく同じように分類可能であるという前提がそこには存在する。
これこそジェムやマグネットだけでなく全ての少年誌で中国人が決まって弁髪を結った姿で描かれる理由だ。
フランス人のあごひげ、イタリア人の手回しオルガン同様、それは識別するための目印なのだ。

こうした小説誌ではときおり物語の舞台が外国に設定され、現地の人々を一人の個別の人間として描こうとする試みがなされることもある。
しかし一般的にはある人種の外国人は全員似ているものとされ、多かれ少なかれ以下のパターンに従う。

フランス人:興奮しやすい。あごひげを生やし、身ぶり手ぶりがおおげさ。
スペイン人、メキシコ人など:腹黒く、不誠実。
アラブ人、アフガニスタン人など:腹黒く、不誠実。
中国人:腹黒く、不誠実。弁髪を結っている。
イタリア人:興奮しやすい。手回しオルガンを回しているか、短剣を帯びている。
スウェーデン人、デーン人など:思いやりがあり、頭が悪い。
黒人:滑稽、非常に忠実。

1940年3月 ジョージ・オーウェル
https://open-shelf.appspot.com/BoysWeeklies/chapter1.html