1891年(明治24年)5月11日。来日中だった帝政ロシアの皇太子ニコライ・アレクサンドロビッチ(のちのニコライ二世)が、滋賀県大津を通過中に、警護にあたっていた巡査からサーベルで斬りつけられるという暗殺未遂事件が起きたのです。

皇太子の車夫と、同行していた従兄弟のギリシャ王子ゲオルギオスが応戦し、さらにゲオルギオスの車夫も駆けつけ、巡査は取り押さえられました。

巡査の名は、津田三蔵。38歳。津田は取り調べに対し、"ロシア皇太子が天皇陛下に挨拶もせず日本国内を訪ね歩いているのは、無礼である。おそらく日本を攻めるための視察が目的だろう"と述べています。

ですが、実際に日本とロシアが敵対関係に入るのはまだ先の話。当時の日本政府はロシア皇太子を国賓として迎えており、国を挙げての歓迎ムードに国民全体が沸きかえっていました。

しかも、ロシア皇太子は"天皇に挨拶をするために"、九州から東京へと向かっている途上だったのです。

また、日本は1889年(明治22年)に大日本帝国憲法を発布し、近代国家としてようやく第一歩を踏み出したばかりでした。そもそも大国ロシアを敵に回せるほどの国力はなかったのです。

そんなところに発生したロシア皇太子暗殺未遂事件。ロシアに、日本を攻撃する絶好の口実を与えたようなものですから、日本政府が真っ青になったことは容易に想像がつきます。

日本国民のための愛国の教科書 将基面貴巳著
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