https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2703G_Q2A131C1000000/

高い声で「欣然受諾」と吉田

71年前の1941年のこの朝、日本は真珠湾攻撃によって米英を中心とする連合国との戦争に入った。偶然だが、この物語できょう扱うのは、日本の敗戦に終わった戦争の講和をめぐる決定的な場面である。1951年9月7日、場所はサンフランシスコである。

巻紙を日本語で読み上げる
各国が激しい議論をしたサンフランシスコ講和会議が7日クライマックスを迎えた。主役である日本首席全権、吉田茂首相の登壇である。会議4日目の9月7日午後8時17分(日本時間8日午後0時17分)、アチソンの指名を受けた吉田は、巻紙を手に演壇に上がった。
「ここに提示された平和条約は、懲罰的な条項や報復的な条項を含まず、わが国民に恒久的な制限を課することもなく、日本に完全な主権と平等と自由とを回復し、日本を自由且(か)つ平等の一員として国際社会へ迎えるものであります。この平和条約は、復讐の条約ではなく、『和解』と『信頼』の文書であります。日本全権はこの公平寛大なる平和条約を欣然(きんぜん)受諾致します」

日本語、英語のそれぞれの全文を別掲しておくが、吉田は予想を裏切って、この歴史的演説を日本語で行った。

「日本全権はこの公平寛大なる平和条約を欣然受諾致します」と語った吉田のやや高い声は当時の日本国民の耳に焼き付いた。耳ではなく目に焼き付いたのはニュース映画で見た巻紙を読む吉田の姿である。

なぜ吉田は日本語で演説したのか。しかもそれが決まったのは7日朝だった。

外務省が用意していた草稿が英語で書かれていたのをみた吉田の側近、白洲次郎が激怒し、日本語に変えさせたとの説がある。それと矛盾するわけではないが、西村熊雄外務省条約局長は次のように回想している。

「(吉田)総理は英語でやられるつもりであられた。5日の夜、他用で訪れていった(西村)条約局長にシーボルト大使は『総理は日本語でやられる方がいいんじゃないか、日本のディグニティ(威厳)のために』との話があり、同僚――松井秘書官など――に話すとみな同感だった。なかなか申し上げにくいところだが、めいめい思いきって申し上げた。『講和会議だから日本全権は日本語でやって国威をたもつのがいいと思う』と申しあげた。白洲(次郎)顧問も賛成で、その趣旨を手紙に書いて総理の部屋のドアの下から入れておかれた――総理はホテルではなく市内のスコット邸に起居しておられた――という話を聞いている。真偽は白洲さんに伺わなくちゃ解らん。総理は結局『日本語でやろう』といってくださった」(西村著「サンフランシスコ平和条約 日米安保条約・中公文庫。まるかっこ内は伊奈による」。

1951年
12月24日 吉田首相がダレスに台湾の国民政府との講和を確約(「吉田書簡」)
1952年
1月18日 韓国、李承晩ラインを設定
2月15日 第1次日韓正式会談始まる
2月28日 日米行政協定に署名
4月28日 対日講和条約、日米安全保障条約発効、日華平和条約署名(8月5日発効)
1953年
1月20日 アイゼンハワーが米大統領に就任。ダレスが国務長官に
10月2日 池田勇人自由党政調会長が訪米。池田・ロバートソン会談
12月24日 奄美群島返還の日米協定署名(25日発効)
西村によれば、日本語での演説を最初に提案したのは米側のシーボルトであり、吉田自身は英語での演説を最初は考えていた。西村がシーボルト提案をメモに書いて吉田の判断を求めた。吉田、白洲のやりとりを西村は承知しないが、白洲は白洲でシーボルト提案を吉田に直接話し、吉田は日本語での演説を判断したのだろう。

もっとも吉田の「回想十年」によれば、アチソン議長から「ソ連もロシア語でやっているのだから日本語で演説してはどうか」とすすめられ、「国粋主義誠に結構」と直ちに同意したという