https://web.archive.org/web/20081120201106/http://www.ittsy.net/academy/instructor/yoshimichi2_1.htm
「どうせ死んでしまうのだから、何をしても虚しい!」「人生はすべて偶然に左右される!」「何が正しいのかわからない!」「生きる理由がわからない!」と呟いているきみへ。
きみの呟きは恐ろしく正しい。人類が地上に出現して以来、われわれはこう問い続けてきたし、しかも誰も最終的な答えを見いだせなかった。

きみが二十代の若者であるとしよう。よく知っているだろう?世の大人たちは、一致団結してきみからこの問いを奪おうと企んでいる。
「そんなこと考えたって仕方ないじゃないか」「もっと前向きのことをしろよ」というように。
あるいは、「よく考えてごらん、生きる理由はあるはずだよ。きみはよく考えないから、そんなことを言っているんだ」「どうせ死んでしまうからこそ、
一瞬一瞬を大事に生きるべきではないかなあ」というように。あるいは「その前に、おまえいったい努力したのか」「ずいぶん結構な身分だよなあ。
誰がおまえを養っているんだ?」というように、あるいは・・・。なぜ、大人たちはこうもこういう「正しい」問いを嫌うのであろうか。躍起になって潰そうとするのであろうか。

なぜなら、自分たちにとっても、本当は「気になる」問いだからであり、その問いにからめ取られている奴がまわりにいると目障りだからである。
生きるとは、こうした問いをグイと腹の底に沈めてしまうことだ、と確信した男女がきみの周囲にうじゃうじゃいる。彼らは有用な問いなら受け付けてくれる。
年金問題をどうすべきか。だが、どんなに年金を受けても、死んでしまうのだ。その後、宇宙の終焉まできみは死に続けるのだ。生きるチャンスは(たぶん)もうないのである。
これは、年金問題より何千倍も重要な問いではなかろうか。少子化で日本の人口は今後減り続けるという。だが、日本が滅亡するより、きみ自身が滅亡するほうが何万倍も切実なことではないのか。

きみが、本当にごまかしなく問い続けるなら、「その問いを生きる」という一つの回答がきみの前に開けてくる。すなわち哲学者になることである。
哲学者とは、哲学研究者のことではない。両者が重なることはあるが、一応別であり、大学で哲学を教えている教授が、自分の問いを生きていないことは稀ではない。
逆に、一片の哲学的知識も持たずに、すでに哲学的に生きている人もいる。それを判定する方法を教えよう。
もしきみが、いまの困難な状況を脱して、この世の幸福を手に入れたら、先の問いを放棄してしまう(しまえる)なら、きみは哲学者ではない。
これに対して、この世で何が与えられようとも「その問いを生きる」なら、きみは哲学者である。

哲学者とは、たとえこの世のすべての価値が与えられても、「どうせ死んでしまう、しかも何もかもわからないままに」ということに深く落胆し、その限り何が与えられても虚しいと思うような、
大層要求の高い人種だからである。たかがローマ皇帝になったくらいでは、シェークスピアになったくらいでは、ロスチャイルドになったくらいでは、満足しないのだ。
もうじき死んでしまうこと、その後、(たぶん)二度と生まれてこないこと、しかも、ほとんど何も知らずに死ななければならないこと、その後、宇宙には人類について何の記憶も残らないこと、
それでも宇宙はいつまでもいつまでも存続するだろうこと・・・この枠組みの「うちで」何が与えられようと虚しいのだ。もしきみが、同じような感受性を持っているのなら、哲学をしたらいいと思う。
だが、この枠組みの「うちで」幸福になりたい気持ちがわずかにでもあるなら、哲学はしないほうがいい。

哲学は幸福を諦めるところから開始される。あの(『旧約聖書』のヨブ記の主人公の)ヨブのように、まわりの人々が何と言おうと、「神(ここでは抽象的にとらえてもらいたい)に向かって」
直接問いかけるところから開始される。あらゆる幸福が―ヨブのように―きみから飛び去っていっても、きみが問い続けるのなら、親が反対しようと、乞食になろうと、狂気に陥ろうと、
哲学をするがいい。ということは、もしそうでなければ、きみは幸福を求めるべきであって、哲学をしないほうがいいということだ。
そして、普通の大人になり、「どうせ死んでしまうのだから、何をしても虚しい」という若者のうめき声を、ありとあらゆる仕方で潰しつけるがいい。それが、きみにぴったりした生き方なのだから。