「なぜ人を殺してはならないのか」の説明には、必ず穴がある

 人を殺してはいけません。古今東西、どこの社会でも常識だ。

 ただし、絶対の正義ではない。「なぜ人を殺してはならないのか」の説明には、必ず穴がある。「いついかなる時も人を殺してはならないのか」と聞かれると、例外だらけだ。

 ここで幼稚な人間は「じゃあ、人を殺してもいいではないか」と言い出す。人を殺してはならない完璧な理由を言えない人間を論破した気になって、勝ち誇る。こういうガキンチョは叱り飛ばすしかない。

 では、人殺しを辞さない屁理屈屋を、どう叱り飛ばすか。「常識で考えろ」だ。常識とは、相対評価だ。

私刑を許せば正論が通らない国になる

 現代日本でテロを賛美しているアホどもに、面と向かって聞いてみたい。「個人が気に入らない奴を殺して良い社会が素晴らしいか」と。この程度の常識が通じない社会は嘆かわしい、では済まない。

安倍元首相が統一教会の関係者なら殺してよかったのか?

 令和の現代。安倍晋三元首相の銃殺は記憶に新しい。

 下手人の山上某は、親が統一教会に財産を貢いで不幸な生い立ちだった。だからと言って、無関係な人間を殺して良い訳がないだろう。一部の言論人に「安倍首相は統一教会と関係があった」と強調し、あまつさえ「殺されて当然の人間だ」と愚説を垂れ流す人間もいる。では、安倍元首相が関係者なら殺してよかったのか?

 安倍元首相が統一教会の関係者だろうがなかろうが、殺してはならない。山上某には何の権利も無い。何の同情の余地なく、社会の片隅で刑に処すだけで良かったのだ。

 ところが、日本社会は誤った選択を行った。安倍元首相の暗殺を機に、統一教会叩きを始めた。統一叩きが悪いとは言っていない。もちろん、叩かれるべき理由があるなら、その弾圧は不当ではない。ただし、テロリストの思うように社会が動いてはならなかった。仮に統一叩きが必要なら、ほとぼりが冷めるのを待つべきだった。テロリストに目的を達せさせてはならなかったのだ。如何なる正論も、やり方を間違えれば狂気を呼ぶ。

テロリストの主張は仮に正論だとしても認めない

 木村の動機は、「選挙に出ようとしたが出られなかった」とか。25歳の被選挙権の年齢に達せず、供託金を用意できなかった。選管で刎ねられ、裁判で刎ねられ、二審の判決が出る前に凶行に及んだ。

 木村は「若者に被選挙権が無いのは法の下の平等に反する」とか身勝手な主張を訴えたそうだ。笑止。では、赤ん坊に選挙権与えるのか? 憲法は合理的区別を許容していると、誰か教えてくれなかったのか。

 ところが、「社会が対応すべきだ!」と言い張る愚か者がいる。今回の事件で日本社会は、被選挙権の引き下げを絶対に行ってはならない。私も被選挙権の引き下げに吝(やぶさ)かではないが、今回の騒動が落ち着く前には議論すらすべきではない。「テロリストの主張は通さない。仮にそれが正論だとしても認めない」との態度を示すべきだ。
山上も木村も可哀そうは理由にならない

 山上にしても木村にしても、可哀そうだからって何をやってもいい理由にはならない。苦しい境遇だって必死にまっとうな人生を歩んでいる人間はいくらでもいる。

 本欄は連載第1回から、若者が虐げられている社会に怒りをぶつけてきた。だからこそ言う。絶対に被選挙権の引き下げをやってはならない。

 人殺しやテロは不可。可哀そうは理由にならない。こんな簡単な常識が通らない。その結果、何が押し寄せるか、想像力を持て。

 小賢しい屁理屈ではなく、大人の常識を持つべきだ。社会が。

https://news.yahoo.co.jp/articles/f50f0bbf4a606ea4497fe4d8408771ec8311936e?page=3