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「ピカソは女性虐待の加害者」ポリコレに狂った教員と学生がピカソ美術館でデモ…
価格は下落「偉人の断罪行為は辺獄行き」
https://news.yahoo.co.jp/articles/751107135109e3d04a02630f075d7dbc0d9d30fb
(一部抜粋)
■ピカソの値段が下がっている
ところが、ピカソの価格がいま、下落し始めているのだという。
(中略)
その背景にあるのが、まさかの「政治的正しさ」だという。
ピカソは女性蔑視で知られており、生前は女性のことを「女神、またはバスマット」と言ったこともある。
(中略)
ピカソの絵画価格が下がったのは、ピカソの作品に問題があったからではない。
ピカソが、現代の価値観では「政治的に正しさ」の観点から許されないからである。
(中略)
こうしたポリティカル・コレクトネスの動きに対して、批判もある。
表現がどんどん規制されていくことで、検閲のような文化が生まれてしまうからだ。
性差別や人種差別をなくす目的は本来、多様性のある社会を目指すためのものだった。
しかし、あまりに表現を狩ってしまえば、逆に多様性は担保されなくなる。
ポリティカル・コレクトネスは常に、この矛盾をはらんでいる。
(中略)
だが、ピカソの価格下落の流れを汲むならば、いずれ森鴎外も教科書から消えかねない。
たとえば「女性関係」だけでも、だらしない人は偉人に沢山いる。
師匠の妻と恋文を送り続けていたブラームスはどうか。
進学費用を女遊びでスッてしまった野口英世も失格か。
アインシュタインは数多くの不倫で知られている。
ガンジーは妻に暴力をふるいながら、未成年の女性を裸にして添い寝させていたという。
これらの人物は明らかに「政治的な正しさ」の観点から逸脱している。
では彼らを教科書から削除するべきか。そうなると、残るのは誰だろうか?
(中略)
■多様性のために「焚書」する過ち
かつて、多くの独裁国家で「焚書=政治的に正しくないとされた本を燃やす」が行われてきた。
それを学んだ私たちは「なんてひどいことを」と感じたはずだ。
だが、ポリティカル・コレクトネスの言論は、民主主義における焚書を実現しようとしている。
「政治的に正しい」から絵画の値段が上がることは、果たして正しいだろうか。
仮にすぐれた裸婦の絵が生まれたとして、女性を裸にひんむいた絵は正しくないからと、
評価を下げるのは本当に多様性と言えるだろうか。
ポリティカル・コレクトネスのため、人物画にはまんべんなく
黒人、白人、ラテン系、アジア系の人を入れるべきだろうか。
それこそ、ピカソのように顔面に線を入れて人種を混ぜるべきか?
賞を取るために、あるいは高い価格で売るためにアーティストが
「セルフ検閲」を始めた先に残る表現は、独裁国家で立ち枯れした作品群と似たものにならないか。
筆者は、多様性がある社会が来てほしいと願っている。
ただし、その多様性のなかには、差別的な思想や、保守的な考え方も含まれている。
リベラルな人はリベラルに生きればよい。保守的な人は同じ仲間で保守的に生きればよい。
そういった多様性を実現するまでには、まだ多数の議論をせねばならないようである。