坂上田村麻呂黒人説は、平安時代の武官であり、征夷大将軍として蝦夷征討に功績を残した大納言坂上田村麻呂が黒人だったという風説である。遅くとも1911年には北米において発生していた。
この説は説得力のある証拠を何一つ提示できなかったにもかかわらず[1]、おもに黒人の学者のなかで21世紀に至るまで引用されており、古代日本におけるネグロイドの存在を証明するものとして考えられていた。

1911年にカナダの人類学者アレクサンダー・フランシス・チェンバレンは“The Contribution of the Negro to Human Civilization”のなかで、歴史上人類の文明化に功績のあった黒人を紹介する際に坂上田村麻呂について短く触れている。

遠い日本で、現代の日本人の先祖はその国の先住民であるアイヌに敵対し北上していたが、その軍団の指導者が有名な将軍でありネグロでもあった坂上田村麻呂だった[3]。

1915年には、同様にアメリカの公民権運動指導者であるW・E・B・デュボイスが“The Negro”において黒人の秀でた支配者もしくは戦士の一覧に坂上田村麻呂を加えて紹介した[5] 。

終戦後の1946年にはBeatrice J. FlemingとMarion J. Prydによって“Distinguished Negroes Abroad”が出版された。
これは田村麻呂を黒人として詳細に紹介した最初のものであった。この著作中で田村麻呂について述べている部分は、架空の日本人が二人の息子に清水寺の田村麻呂像の前で彼の偉業を語るという体裁をとっていた[1]。

1946年にはほかにもCarter G. WoodsonとCharles Harris Wesleyによる“The Negro in Our History”やJoel Augustus Rogersによる“World's Greatest Men of Color”において
田村麻呂が黒人として取り上げられるなど、にわかに注目を浴びた。 “Distinguished Negroes Abroad”において取り上げられた「清水寺の田村麻呂像」のイメージは1989年にMark Hymanによって出版された
“Black Shogun of Japan Sophonisba: Wife of Two Warring Kings and Other Black Stories from Antiguity”によって具体化された。

彼が祭られている寺院において見るところでは、麻呂の像は仲間の貢献者よりも背が高かった。彼の髪は巻毛で隙間なく、目の間隔は広く茶色だった。鼻孔はふくらみ、額は広く、顎は厚く少し突き出していた[6]。

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