「これで死んだらダサすぎる」28歳ニートが出版社を立ち上げるまで

本の編集作業をする屋良朝哉さん=2023年7月31日、東京都小金井市、福岡龍一郎撮影
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子どものときから、吃音(きつおん)が悩みの種だった。緊張するとどもり、うまく話せなくなる。屋良朝哉(やらあさや)さん(29)は中学生のころから、だんだんと人と話すのが怖くなっていった。

ひとり、トイレで弁当を食べた
地元・沖縄の大学に進み、自己紹介をしたときも言葉がうまく出てこなかった。
「何を話しているのか分からない」「宇宙人」と周りに揶揄(やゆ)された。愛想笑いをしてその場をやり過ごす。そんな自分も大嫌いだった。
サークルに入らず、親しい友だちもできなかった。誰にも見られない大学のトイレの個室や階段の踊り場で、ひとりで弁当を食べるのが日常になった。
授業に出るのもおっくうになった。バイト先でも上司からの指示をすぐにのみ込めず、怒鳴られてばかり。常に心にむなしさを感じるようになった。
2015年、大学4年で休学届を出した。このまま社会に出ても、やっていけないと思った。

就職活動をしているスーツ姿の同級生たちがキャンパスを歩いていた。「なんで自分は普通にできないんだろう」。社会からこぼれ落ちる感覚が怖くて、帰り着いた部屋で泣いた。

アルバイトの面接にも落ちて
環境を変えて再出発したい、と21歳で東京のシェアハウスに移り住んだ。3年ほど暮らし、そこで知り合った人たちと、当時流行していたボードゲームカフェを開くことになった。

店長を任され、休日は満席になるほど繁盛した。ただ、仲間内で人間関係のもめ事が起き、人生を懸けた挑戦は、1年余りであっけなく潰れた。
追い出されるようにシェアハウスを出て、家賃3万円の高円寺のアパートに移った。正社員の職はおろか、申し込んだアルバイトの面接にさえ落ち続けた。
心の不調で、精神科に通い始めた。毎月のカレンダーの予定が「病院に行くこと」以外になくなった。収入はそれまでの貯金と親の援助を頼った。
1日1食、最低限の食事しか取らなくなり、体重が40キロほどになった。夕方に目を覚まし、深夜の町をあてもなく歩き、夜明けに眠りについた。

「死んでいるように生きていた」
市販薬を1日に100錠近くのみこむオーバードーズや、カッターでの自傷行為を止められなくなった。「死んでいるように生きていた」。そんな暮らしが4年近く続いた。

2022年3月の深夜。その日は、特に気分が落ちこんでいた。布団にくるまって、カミソリの刃を長時間見つめた。蛍光灯の光で、刃が青白く光った。
「人生に生きる意味はあるのか」。混沌(こんとん)とした考えが、ぐるぐると頭の中を回り続けた。
自殺をすることは、思いとどまった。刃を見つめていたとき、自分でも意外なほど、胸に怒りが湧いてきたから。
「これで死んだらダサすぎる。悔しいよ」
「最後は闘おう。好きなことをして燃え尽きよう」
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