ここでジャップが行なったマニラ大虐殺を見てみましょう


当時メトロ・ゴールドウィン・メイヤーのフィリピン代表として勤務していた映像制作のフランシスコ・ロペス(Francisco Lopez)によれば、2月10日には、マニラの高級住宅街であったエルミタ地区(英語版)(Ermita)地区では、戦闘により火災が発生しており、当時35歳のロペスが500人以上の隣人や家族と共に戦火から逃れようと、フィリピン在住のドイツ人クラブの建物の地下に避難したところ[96]。

午前10時頃、日本軍の部隊がクラブを包囲し、誰も地下スペースから出てはならないと命令する一方で、施設内ではクラブの中心にあった絨毯、椅子、テーブルを、施設の入口ではスーツケース、缶詰の包み、避難民が持参していた衣類を積み上げてガソリンを撒き、火を放った[96]。女性や子供たちはパニックに陥り、「トモダチ!友達です、私たちは友達です!」と叫んだ[96]。

ドイツ人クラブのマルティン・オハウス(Martin Ohaus)は、ドイツが日本と同盟を組んでいることを材料に避難民のことを考慮してくれるよう日本軍の士官を説得しようとしたが、士官はオハウスを突き飛ばして足蹴にした[96][注 2]。赤子を抱えた母親たちは命乞いをしたが、海軍兵士らは銃剣で赤子を突き刺し、地面に叩きつけた[96]。

そして女性たちの髪を掴み、強姦し始めた[96]。20人を超す海軍兵士たちが13歳に満たない外見の少女を輪姦した上、少女の乳房を切り取り、そのうちの一人が自分の胸に切り取った乳房を押し当てて女の真似をし、他の兵士たちはそれを囃し立てた[96]。

海軍兵士たちは他複数名の女性も強姦した挙句、髪にガソリンを撒いて焼いた[96]。また、同じ現場ではロペスの使用人の一人 Bernardino Calub も当時2歳の息子を竹槍で突き殺され、下手人に仕返ししようとして袋叩きにされた挙句連行されたロペス邸跡のガレージの柱に縛り付けられ、性器を切断されて口内に突っ込まれた[96]。

ロペスは母カルメン(Carmen)と別れてクラブを脱出する決断をし、弟のホセ(Jose)や隣人のホアキン・ナバロ(Joaquin Navarro)と共に逃げ出すが、ロペス以外の2人は撃たれて倒れてしまった[96]。ロペス自身も左足を撃たれるが死んだふりをして兵士をやり過ごした[96]。

姉マリア(Maria; 当時40歳)はクラブからの脱出に失敗して焼死し、義姉フリア(Julia; 当時28歳)は日本軍兵士に輪姦され、乳房を切断、髪にガソリンを撒かれて焼かれ、知人の女性も殺害後に死姦された[96]。

ドイツ人クラブに避難していたスペイン人ホセ・フランシスコ・レイナスによれば、クラブには1,500人もの住民が避難していたが、ドイツ人住民の多くはマラカニアン宮殿近くの女子大やマニラ南部の修道院に避難しており、クラブに避難していたドイツ人は6人であり、殆どはフィリピン人であったという[98]。

クラブの建物自体はそれほど大きくないため、多くのフィリピン人が建物の床下や庭の防空壕に隠れていた。2月10日午後2時30分頃に30人ぐらいの海軍陸戦隊の兵士が現れ、そのうちのひとりが英語で「アメリカがやってきた。お前たちはアメリカ人の顔を見ることはないだろう」と叫ぶとクラブの建物を取り囲んだ[99]。

やがて日本兵は防空壕に手榴弾を投げ込み、建物に火をつけて炎と煙にたまらず外に飛び出した避難民に銃撃を浴びせた。レイナスの父親も日本軍に射殺された。レイナスも腹部に銃撃を受けたが、死んだ真似をして日本兵をやり過ごして、陽が落ちた頃に防空壕に逃げ込んで難を逃れた[100]。

虐殺は翌朝まで続いたが、日本兵が女性に性的暴行を加えてるような、女性の泣き叫ぶ声や日本語の卑猥な言葉が聞こえてきたという。クラブは完全に焼け落ち、レイナスは1週間防空壕で地下水だけで生き延びたのちにアメリカ軍に保護された。ドイツ人クラブで生存することができたのはレイナスを含めてわずか5人だけであった[101]。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/マニラ大虐殺