https://bo-sai.co.jp/kantodaisinsaikiseki6.html
「本牧沖に投錨して間もなく伝馬船やボート等を駆って被災者が殺到し、
これや丸の船内は忽ち三千人余りの避難民でごったがえした。
神奈川県知事、警察部長など首脳部が乗り込んできて急拠
「救済本部」をこれや丸に設置し一切の救援指令を発することとなった。
関東一帯の陸線はほとんど破壊され、関西方面からの救援を求める途は
無線によるより外にはない(短波やラジオは勿論テレビのない時代である)。
食糧も水もなくこのままでは餓死に追い込むことになる。
なんとしても第一報の救援指令を一刻も早く関西に報じなければならない。

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF293IG0Z20C23A6000000/
1923年(大正12年)9月2日。関東大震災が発生した翌日に、
大阪市は助役ら10人を首都支援のため大阪商船シカゴ丸で送り出した。


大阪は深夜に横浜から無線でSOSを受けて
朝には手当たり次第物資を確保人員を手配して救援隊を送った
関東では一切教えない歴史事実