バリアフリーには右も左もない。

芥川賞受賞会見は、私の言葉遣いが拙(つたな)かったせいでもあるが、ネットの一部からはお叱りの嵐を買った。いわゆる炎上である。但(ただ)し、私の元にまで直接リプライを飛ばしてくるわけではないので、わりあい奥ゆかしさを感じる嵐なのであった。揶揄(やゆ)、冷笑、反感、痛罵、そうしたご意見を虚空に投じる人々には、日の丸やサクラの絵文字を掲げているアカウントの方が多いように見受けられた。中には私を彼らと政治思想的に対立する者として見做(みな)す言葉も多々あった。社会的な主張を申し立てる障害者というだけで即座に自分たちの敵だとする感性は短絡にもほどがある。

十代半ばから月刊「正論」読者でもあった私のような筋金入りの人間に対して、読書バリアフリーを訴えるマイノリティな身体障害者という面だけを見て、こいつは反日だの、左の活動家だのと、ずいぶん皮相浅薄なことを言ってくるものだと悲しくなった。それ以上に、昨今SNSが媒介する社会分断の深刻さはまことに嘆かわしいものがある。こういう時代にこそ人の心に想像力を養う小説という文化の力を逞(たくま)しくしていかなければならないと、芥川賞作家としては多少しらじらしくても言うべきだろうか。しかし産経新聞を購読する賢明な諸兄姉におかれては、もとより誤解の余地もなく、バリアフリーそして読書バリアフリーには右も左もないということを理解いただけるものと信じている。

差し迫る国難を見据えなければならない時代に、右か左か敵か味方かをインスタントに判断して両極端に分裂したがる安易な分断現象をこのまま放置していてよいとは私には到底思えない。れっきとした国家の脆弱(ぜいじゃく)性だろう。人口減少の社会では、ただ一人の生きる力の取りこぼしもあってはならない。