『転スラ』や『葬送のフリーレン』を本当に「ファンタジー」と呼ぶべきなのかどうか考えてみた。

「なろう」や「カクヨム」に投稿されるファンタジー小説の世界のほとんどは「借りもの」である。
俗に「ナーロッパ」などと呼ばれるそれらの投稿作品の世界観は『ドラクエ』とか『ファイナルファンタジー』からテキトーに借りてきてちょっと改変したシロモノに過ぎない。

そこには、ひとつの世界をゼロから生み出そうというトールキン的な情熱はまったく見られない。
(略)
しかし、異世界のメートル法を問題にする人は、べつにその合理性について疑問があるわけではなく、
むしろ「雰囲気」を気にしているのではないだろうか。

せっかく異世界の冒険を垣間見ているつもりになって興奮しているのに「5メートル離れたふたりは向かい合った」
というような描写があると、そこでしらふに戻ってしまう。そういうことはたしかにある。

理屈をいうならそもそも「異世界」などというものが非合理的な存在なのだから、
そこでメートル法が使われていたからといっておかしいとはいえないわけだ。

ただ、作者の「手抜き」が見えると、異世界を異世界として感じられなくなるのである。
(略)

「なろう」などに投稿される「異世界小説」は従来の「ファンタジー」とはあきらかに違う需要から生み出されたものである。

それらは表面的にファンタジー小説のガジェットを使っているだけであって、「ファンタジーの精神」ともいうべきものを備えていない。
いわゆる「古典的なファンタジー」のコピーのコピーのコピー、ただそのアイテムを流用しただけの作品をほんとうに
「ファンタジー」といえるのかといったら、むずかしいところだろう。

いくらエルフやゴブリンといったファンタジー的なガジェット(カレー)が使われていても、
そこにファンタジー的な世界創造の情熱(ライス)がなければファンタジー(カレーライス)とは呼べないのかもしれない。

そういう意味では、山本弘や野尻抱介といった古い世代のSF作家が「異世界小説」を批判するのは当然といえば当然のことである。

かれらの目には、「異世界小説」は古典的なファンタジーの「劣化コピー」としか映らないだろうから。
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