2011年7月3日に復興担当相就任後初めて被災地入りし、岩手県で達増拓也知事、宮城県で村井嘉浩知事との会談を行った。その際の暴言が問題となり、7月5日に復興相と防災相を辞任することになった[41]。
当時は、震災の鎮魂と復興を願って7月16日、17日に初めて開催される第1回「東北六魂祭」(宮城県仙台市)の直前準備の時期だった。
問題となった発言は以下のとおり:
達増知事に対して
「九州の人間だから、何市がどこの県とか分からん。」
「本当は仮設はあなた方の仕事だ。」(仮設住宅の要望をしようとする達増に対して)
「知恵を出したところは助けるけど、知恵を出さないやつは助けない。そのくらいの気持ちを持て。」
村井知事に対して
「県でコンセンサスを得ろよ。そうしないと、我々は何もしないぞ。ちゃんとやれ。」(被災した漁港を集約するという県独自の計画に対して)
「(今、あとから入って来たけど)お客さんが来るときは、自分が入ってからお客さんを呼べ。いいか、長幼の序がわかってる自衛隊ならそんなことやるぞ。
わかった? しっかりやれよ。」(応接室に村井知事があとから入ってきたことに対して。村井知事は元陸上自衛官。この発言に先立って松本は「先に(知事が部屋に)来るのが筋だよな。お迎えするのがね。」とつぶやいていた。)
上記発言に続けて、「今の最後の言葉はオフレコです。いいですか、みなさん、いいですか、『書いたらもうその社は終わり』だから。」
松本は「(村井知事が)3、4分出てこなかった。だから怒った」としたが、松本が応接室内で待った時間は1分27秒(TBS調べ)であった。また、村井知事は「時間通り」に入室していた[48]。
松本は応接室で待たされ、知事が出迎えなかったことに腹を立て握手を拒否したが、これは通常の応対に過ぎず、村井知事も「社会通念上、このような接遇が正しいと理解している」と述べている[48][49]。
これら一連の発言について、村井知事が「国と地方自治体には主従関係はない」と不快感を示したほか、被災地や野党から反発・非難の声、首相官邸や民主党への抗議電話も相次いだ。
2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震、並びに福島第一原子力発電所事故の松本の対応について、週刊現代は「官邸に引きこもって閣議後の定例会見すら開かない。
取材対応も記者との立ち話程度で、原発のことを聞くと「私は担当じゃないから」と逃げる。何をやってるのかさっぱり分からない」(匿名の全国紙政治部記者)、
「官邸の危機管理センターに詰めていた松本氏がまったくの役立たずで、自衛隊の初動が遅れた」(匿名の全国紙政治部デスク)、「防災担当相として松本がやるべき仕事はほとんど仙谷由人官房副長官が行っており、松本は単なるお飾りと化している」(匿名の官邸スタッフ)
などの声が上がっているとしている[70]。この点に関連して、松本自身は7月3日の岩手県知事との会談で「私はボーッとしていたけど、みんなでやってくれた」[71]と述べている。
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