音喜多駿議員の山本太郎氏被災地視察批判騒動”に見る国会議員の資質とは

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

【1/13(土) 2:53】

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/f1fba7eec3baa543f57604e2c76658022717077a


音喜多氏の、「山本氏が被災地に行った結果、得られた知見は書類に書いていることと同じであるから意味はない―。」というふうに読める批判理屈は、返す返すいかがなものであろうか。換言すればそれは身体性の否定である。「自分で見て・聞いて・感じたこと」が仮に既知の書類の中で書かれた問題点と同じであっても、その実際はまるで違っている。結論は同じであっても、その場で体験した空気感こそが体の中に染み付き、それが優良なる提言等に結びつくはずだ。これこそが身体性である。

 より広汎にこの問題を考えれば、すでに世界中で問題とされている社会的、政治的イシューは、すでにどこかの誰かが問題点として論文や書籍の中にまとめられている。よって、仮に熱意のある議員が現地に急遽赴いても、その彼が既知でない、新しい問題点を発見するのは大変難しい。世の中のさまざまな問題は、その解決法も併せて「すでに、どこかの誰かが解説・提案している」ものばかりだからだ。

 だからといって、現地に行ってそれをトレースすることは無意味なことなのか。違う。現地で体験した匂いや、皮膚に感じる言語化できないニュアンスを、それでも言語化するのがジャーナリストであり作家である。そしてこの二者を包摂すべきなのは、ある種理想的な国会議員の資質であろう。

 国会議員は声にならない声を拾い上げる「一隅を照らす」存在でなくてはならぬ。そしてその一隅の声は、総論としては書類の中にあっても、その書類の中の行間に埋没している「何か」であるやも知れず、その埋没した小さき声を、彼ら国会議員の身体に刻み込み縷々立法の背景にするためには、やはり結論がいかに同じであっても、現地に行かねば話にならないのではないか。

 このようなことを加味して山本氏の今次の行動を批判ないし称賛するのは全く自由であるが、

「自分の嫌いな党の議員がやったことだから、無条件に批判(糾弾)する」

 あるいは、

「自分の好きな党の議員がやったことだから、無条件に支持(称賛)する」

 という党派性を抜け出さない限り、この種の騒動や論争には、ほとんど建設性がなく、また意味もないと思う。このような党派的風潮は、到って健全な民主主義社会の形成に際し、その足を不如意に引っ張るだけではないのかと危惧するものである